2007-10-10 Wed [ コスタリカ ]
by 日詰明男
コスタリカにおける対アメリカ自由貿易協定(TLC)の導入をめぐって行われた国民投票の結果は、賛成51.7%、反対48.3%という結果に終わった。投票率は60%だったという。
賛成したのは富裕層である。
「コスタリカよ、おまえもか!」という気分である。
この国民投票は現職オスカル・アリアス・サンチェス大統領の一存で決行された。
アリアス大統領は周知のように1986年から1990年まで大統領を務め、1987年にはノーベル平和賞を授与されている。
本来コスタリカ憲法では大統領は一回限りの任期で再選は禁止されていたのだが、数年前にアリアス陣営の圧力によって憲法が改正され、アリアスは例外的に2回目の大統領就任を許されたという経緯がある。
再選の弊害がこのような形で現れたことは、未来のコスタリカ人にとって悔やんでも悔やみきれない汚点となるであろう。
現在、小差だったこともあって票の数えなおしが選挙最高裁判所によって行われているそうだ。
たとえこのままTLCが批准されたとしても、賢明なるコスタリカ国民は簡単には引き下がらないだろう。
しばらく眼が離せない状況が続きそうである。
教訓
政治家の再選はろくなことにならない。利権の温床となるだけである。
まして世襲議員や代議士一族などありえない話である。
憲法を安易に変えてしまったことがそもそもの失敗である。
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2007-10-05 Fri [ 政治経済 ]
by 日詰明男
以前コスタリカ報告11で以下のように書いた。>たとえば投機行為は他人の損失を前提とした利益追求であり、
>これは正真正銘の悪意である。
>社会に寄生する「マフィア」の存在と実質的に同等である。
>にもかかわらず、現代経済は投機行為を前提とし、国家が
>それを奨励しているほどである。
>一億総マフィアになってどうするのか?
「投機のどこが悪い」と言う人も多いだろう。
まず「投機」と「投資」は区別すべきである。
そして現代経済のはほとんど投機的思惑で動いている。
近年のガソリンや穀物の高騰を見ればわかるだろう。
投機家の賭博行為によって広く浅くすべての人々が被害を受けている。
「投資」は東印度会社設立当時には意味のあるアイデアだったが、現在は「投機」に蝕まれて見る影もない。
なぜ投機=悪意なのか。その一例を書こう。
数年前、ちょうどブッシュ大統領がイラク爆撃をする直前のころの事である。
大手証券会社のベテラン社員が、株を手放そうとしている顧客にこう言ったのを私はこの耳で聞いた。
「戦争がはじまりそうですから、株価が上がるかもしれませんよ。」
平然とそういった台詞が出たのである。
これが悪意でなくてなんであろう?
おそらくその証券会社社員は微塵も自分の言動に疑問を持たず、今も実績を上げることに邁進していることだろう。
その人にとって世界は単なるゲームなのだ。
聖戦とされる戦争が、大国の権力者や軍需関連企業の利益のために引き起こされていることは周知の事実である。
しかしいまやどこにでもいる一般庶民までが自己の利益のために、他国の生命や財産が破壊されることを期待している。
みなその行動の意味を考ず、短期的視野と利己主義に基づいて投機ギャンブルをゲーム感覚で興じている。
爆撃の遠隔操作ボタンを押すペンタゴンと、投機に走るトレーダーは殆ど同じ行為である。
そして恐ろしいことに「投機をしていないから自分は悪に加担していない」と言い切れないのが現代資本主義社会の仕組みである。
なぜなら、私たちの支払った税金や預金、保険金のかなりの部分が、そのような悪意に資するべく運用されているからである。
「一億総マフィアになってどうするのか」と書いたことは決して誇張ではないのである。
ではどうすればいいか?
ましなアイデアはいくらでも考えられる。
変えようとしないのは人類の怠慢以外の何物でもない。
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2007-09-30 Sun [ 政治経済 ]
by 日詰明男
郵政民営化がいよいよ明日から実施される。2年ほど前から、郵便局の片隅で米国ヘッジファンド、ゴールドマン・サックス社が投資信託を販売しているのに気づかれている人も多いだろう。
あまり客が利用している気配もなかったが。
これはあくまでもゴールドマン・サックス社の布石にすぎない。
郵貯簡保資金につばをつけたというところであろう。
本丸は郵貯簡保資金の自由な運用(投機ギャンブル)代行にあるのだろう。
一昨年の小泉首相による郵政民営化キャンペーン総選挙の際、テレビの討論番組等で、誰かが「郵政民営化は外資の圧力だ」と言おうものなら、田原総一郎も古舘伊知郎も、司会者の立場でありながらまるで申し合わせたように「それは陰謀論だ」とヒステリックに一蹴し発言をさえぎったものだ。
刺客候補フィーバーも手伝って、自民党は選挙に大勝し、郵政民営化法案はいとも簡単に通ってしまった。
あれから2年、陰謀論扱いされたシナリオは着実に実現している。
郵便サービスも目に見えて悪化している。
各種手数料は高くなったし、私が利用している郵便局でも時間外窓口が閉鎖された。
案の定、過疎地の郵便局は続々と閉鎖しているという。
ますます地方での生活は不便になるばかりである。
かくして人口は都市に集中し、地方の過疎化に拍車がかかる。
従来の郵貯簡保資金は、確かに政治家の思惑のまま乱発する国債の受け皿となり、無用な公共工事などに間接的に流れていた。
しかしそれでも地上げや原野商法(土地ころがし)、株投機(株ころがし)、空売り、サラ金に融資する民間銀行や証券会社よりはまだましだったといえる。
これから郵便局もただの民間銀行になるのだから、国民の預金は露骨に、そして合法的に投機的運用に蕩尽されるだろう。しかもそれは米国ヘッジファンドの主導権によってである。
これからしばらく、日本祭りに興じるのであろう。
箪笥預金が最も安全であるという社会になってしまった。
日本銀行券を見放し、貨幣経済から離れる人も増えるであろう。
将来かならずこの愚かな選択が見直される時がくるだろう。
その郵政民営化の失敗から、あらたなシステムが考えられてしかるべきだろう。
原点に帰って構想してみる。
送金手数料のみで運営される国営の金庫・送金サービスがあっていい。
預金は一切運用せず、送金手数料を除いた元本は完全に保証される。
国債にさえ手を出さないから、政府に悪用されることもない。
いわば「貨幣郵便」。
郵便は一律手数料(切手)だけで発信者から預かった私信を宛先に届けるサービスであった。
預かった手紙の内容を第三者に勝手に利用させたりはしない。 これと同じことだ。
同様に貨幣を預かり、中途で運用をせず、機械的に送金、入金するだけの業務に限定するのである。
これは民営化とはまったく別の方向性で、しかも以前の郵便貯金のシステムをより簡素化したものである。
世の中わけのわからん運用をしている金融機関ばかりだが、上記のような金融機関があったら私はそちらを利用したい。不労所得(利息)などはなから期待しないし、預金を勝手に運用されたくない利用者は多いはずである。
そのときまでに郵便局のインフラが残っていることを祈る。
すでに郵便局の閉鎖は始まっているし、旧国鉄のようにローカル線がずたずたになる可能性のほうが大であるが。
お金を増やしたい人は従来どおり投機家や投資家になればいい。その受け皿は既に十分にある。銀行や証券会社だけでなく競馬やパチンコも選択肢の一つである。
これは実際に新しいモノを作ろうとする製造業やアーティストとは無縁な世界である。
問題なのは、安心して預けられる金庫、安心して送金できる行政サービスという選択肢が日本では失われてしまったのである。
新自由主義とやらの価値観からすると、過疎の村の郵便局など採算がとれないのだから閉鎖して当然だと言うのだろう。
しかし、私たちの身体組織をみれば明らかなように、足の小指の先の先まで、新鮮な血液は生きている限り送り続けられるのである。
どんなに過疎化した地方でも、利用者が一人でもいるかぎり郵便局を残すのも一つの価値観である。従来の郵便システムはそれに近い理想にもとづいて張り巡らされていた。
それは日本だけではなく、郵便システムの発明における根本思想だった。
そしてそういう社会インフラを守っている国を、私は尊敬する。
たとえマンモス大学構内にたった一人の車椅子の学生だけだったとしても、段差を無くしたり、エレベーターを増設することに反対する理由があるだろうか?
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2007-09-26 Wed [ コスタリカ ]
by 日詰明男
日本ではほとんど見かけないが、コスタリカではホンダ製の「quad(クワード)」という4輪駆動バイクが大活躍している。ヤマハも同類製品を出しているようだ。
かなり急勾配の上り坂でもぐんぐん登る。
無理をすれば荷台に3人乗せることができる。
まるでコスタリカのために開発されたような乗り物である。
街中で1/2サイズのチビクワードが公道を走っていてびっくりした。
運転しているのもチビ(小学生)だった。
子供サイズがあるとは!
しかもいっちょまえに公道を走るとは!
オフロードバイクを小学生が運転しているのも見かけた。
こちらは標準サイズである。
ちょうど交番の前を通り過ぎたが、警官は特に関心を示さなかった。
コスタリカの悪路は有名だが、一説には、観光化を制限する意図があって、あえて舗装しないのだという。
たしかにこの悪路に耐えて奥地へ向かおうとする観光客はよほどの根性だと思う。
悪路にはもうひとつ利点がある。
車はスピードを出せないので、野生動物との事故がほとんど起こらないことだ。
そういえばアメリカのフリーウェイでは、1キロおきに死骸がぺしゃんこになっていたものだが、人々は特に関心を示さなかった。
|| 15:36 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-09-26 Wed [ コスタリカ ]
by 日詰明男
社会は本来善意で成り立っている。社会は善意を前提としている。
社会の起源は善意である。
経済の奔流は善意の連鎖である。
それは人間社会ばかりでなく、熱帯雨林の生態系も同様だろう。
コスタリカのような、あんなぼろぼろの紙幣や伝票を皆が信用して、あらゆる物事が回転しているのは人々の善意以外の何物でもないだろう。どこか路傍の無人野菜売り場を髣髴とさせる。
紙幣はぼろぼろであればあるほどそれは信頼されている証であり、その国の経済が順調であることを示しているのではないだろうか。
貨幣は「善意の符号」のひとつである。
「お金を払い、受け取る」という単純な交換行為には、無意識に社会への帰属感が伴うものであり、それは同時に無言の社会教育にもなっている。
個々人の善意の一挙手一投足が社会に受け入れられ、反映されるという実感がコスタリカでは生き生きと感じられる。
そのような不断の行為の積み重ねによって、徐々に人々の心に形成される好ましい帰属意識の総体を「愛国心」とか「郷土愛」と呼ぶならば私は同意する。
けっして国歌を歌ったり国旗を掲げたりすることを強制されて根付くものではない。
子供のころ、運動会で綱引きをしたときに、こんなに大勢なのだから自分ひとりが力を緩めても何も変わらないだろうと思い、こっそり手を離してみたことがあった。
するとみるみる相手側に引っ張られ、あわてて力を入れなおしたことをよく覚えている。
標本が大数に至っているからといって、個人の行為が誤差の中に埋没することはないのである。
善意が社会を支えているというのはそういう力学である。
この綱引きゲームの対戦相手は熱力学の第二法則「エントロピーの法則」である。
ところが、その善意がことごとくカフカ的官僚機構のブラックホールに吸い込まれ、仇で返されてばかりだったらどうだろう?
国民は憔悴するばかりであろう。
国民が善意を放棄するのも無理からぬことである。
現代の日本はそういう状況に陥っていると思う。
綱引きの喩えを再び使うならば、対戦相手はエントロピーの法則ではなく、綱の行く手は悪意ある者の手によって滑車がかけられており、その綱はそのままこちらに戻ってきていて、味方の足に結び付けられていた、というようなものである。
たとえば投機行為は他人の損失を前提とした利益追求であり、これは正真正銘の悪意である。
社会に寄生する「マフィア」の存在と実質的に同等である。
にもかかわらず、現代経済は投機行為を前提とし、国家がそれを奨励しているほどである。
一億総マフィアになってどうするのか?
「悪意に基づく社会」は「母を出産した息子」と同様の名辞矛盾であり、ナンセンスである。
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2007-09-26 Wed [ コスタリカ ]
by 日詰明男
コスタリカ国産のビールは安くておいしい。Imperialが一番人気で 500ml 150円。ワインはチリやアルゼンチンからの輸入なので比較的高く、相場は日本とほぼ同じ。
コスタリカでは輸入品は何でも高い。関税をしっかりかけているのだろう。
ガソリンやプロパンガスも輸入なので日本とほぼ同じ値段のようだ。
電気は自国の水力発電でまかなわれ、電気代は安いという。
電気を節約する習慣は意外にもあまりみられない。
みな長電話をしているところからすると、電話料金も安いのかもしれない。
国産の食料は安く、日本の物価のおよそ1/2に感じる。
バスは民間なのに安い。
車体は古いベンツで、煙をもくもく吐きながら走る。
南米からの払い下げを使っているらしい。
バスを一度だけ利用したが、1時間乗っておよそ100円だった。
10時間乗って1000円ほどだというから、だいたい距離に比例しているのかもしれない。
車内は意外に涼しくておどろいた。
前後のドアが開けっ放しであるから、冷房をきかせているとも思えないのだが。
バスには運転手と車掌に加えてもう一人なぜか関係者が乗っていて、これではとても採算が合うとは思えないのだが、これもワーキングシェアの一種だろうか。
バス会社は国営郵便局を差し置いて、物流(宅配)の副業もしている。
配達の仕方を見ていると、どう見ても非公式であり、個人的な信用を前提に営業を続けているとしか思えない。
日本の田舎のバス同様に、声をかければどこでも乗り降りすることができる。
コスタリカの税制についてアルフレッドから聞き出した情報は以下のとおりである。
年収5000ドル以下の収入の人は無税。
消費税は一部の商品のみにかかる
もちろん生活必需品にはかからない。
電化製品や自動車などの贅沢品にかかる税金はかなり高い。
カフェやレストランには神棚のような場所にソニー製のテレビやステレオが置かれ、しかも鉄製の檻に入れ南京錠と鎖で盗難防止する徹底ぶりである。
自動車の場合、税率はなんと100%だという。
日本のタバコなみである。
ただし日本の酒税やガソリン税の上にさらにかけられる消費税のような2重課税はない。
車検制度も特に無いようである。
国営銀行が地方の隅々まで張り巡らされており、24時間営業である。
もちろん国内筆頭の巨大バンクである。
雇用者は日雇いに対する報酬でさえ、いちいち伝票で労働者に支払う。
小切手ではなくあくまでも藁半紙の「伝票」である。
労働者はそれを持って最寄のナショナルバンクへ出向き、現金を受け取る。
町はずれの人々にとっては、伝票を現金に替えに行くのも半日仕事だろうが、皆少しおしゃれをし、街でささやかな贅沢をして来るのであろう。
このように国営銀行が出口をおさえていれば、お金の流れを把握するのも簡単だろう。
国営銀行は個人に貸し付けもしてくれるらしい。
紙幣はまるで洗濯していない着古したジーンズのように、ぼろぼろで少し湿っており印刷もかすれているが、社会の血液として立派に機能している。
コスタリカのお金を使うときに「コスタリカ社会に参画しているな」という実感が特に強く感じられるのは、あながち幻想ではない。この感覚は、投機行為が主要産業となりつつある近代国家ではほとんど忘れ去られつつあるものだ。
年金制度についてもアルフレッドにしつこく聞いたのだが、どうも質問の意図すら伝わらないことからして「かけ金」という概念がないのかもしれない。
税金、あるいソーシャル・セキュリティーだけで福祉は十分まかなわれているのかもしれない。
日本の税制は東京の都市計画、法体系や官僚機関、政府関係法人同様に、足りなくなったら付け足すことを節操無く繰り返してきたので、醜く肥大し交錯しまくっている。そこには弁証法がまったく利いていない。
社長の息子のおもちゃ箱をひっくり返したようなものである。
有名なパーキンソンの法則「役人の数は仕事の量に関係なく一定の割合で増えていく」をみごとに体現している。
だから今や、税を払う人も、徴収する側も、使う側も、誰も方向性や全体像を把握できない。
納税者はできるだけ納税を避けようとするし、税務署は脱税者を日々検挙し続け、政治家は税金を私利私欲のために使うばかりである。
これでは制度が動くわけがない。
この常軌を逸した税制を無理やり動かすには、恐怖政治の道しか残されていない。
これらは一種巨大化しすぎた恐竜のようなもので、何もせずただあるだけでエネルギーを消耗するばかりである。絶滅は時間の問題である。
一刻も早くガラガラポンし、ゼロから作り直さなければならないことは誰の目にも明らかである。
俳句の精神で、最小限の大枠を決めてバランスよく配分すればいいのだ。
しかし、どんなに危機に瀕していても、自民党はあいかわらず首相の挿げ替えパフォーマンス等でお茶を濁し、乗り切ろうとしているようだが。
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2007-09-24 Mon [ コスタリカ ]
by 日詰明男
コスタリカの現実に触れるほどに、日本の茶番政治や土建屋主導の都市計画、刹那的流行、いじめ社会、悲壮な労働環境など、なんでこうなるのと、どんよりとした気分になるばかりだ。だが、コスタリカで発見する好ましき日本もある。
アルフレッドがクボタ耕運機を家宝にしていたように、コスタリカにおける日本製品への信頼は非常に高い。
電動工具はマキタ。自転車はシマノ。自動車はトヨタ、スズキ、イスズ。バイクはホンダ、ヤマハ。オーディオはソニー、パナソニックが席巻している。
彼らはそれらの道具を壊れるまで、というよりも、壊れても使っている。
余談だが、かくいう私もソニーのトランジスタ・ラジオを30年以上愛用している。
このラジオはすごい。
実は数ヶ月前に、このラジオを聞きながら屋根に登って作業していたところ、誤ってアスファルト道路に落としてしまった。
ついに壊してしまったかと思いきや、少しへこんだだけで今も何の問題も無く作動している。
こんな丈夫な電化製品がほかにあるだろうか?音質も感度も燃費(電池のもち)もいい。
ちなみにこの旅行にも携帯している。
ラジオはソニーにかぎる。
ソニーはアイポッドやアシモなどの後を追うよりも、この創業時以来の基本路線を守ってほしいものだ。
コスタリカの人は誰もがトヨタを絶賛する。
トヨタといってももちろんプリウスのような高級車ではなく、四輪駆動オフロード・マニュアル車である。
余計なアクセサリ(電気設備)が無ければ無いほど好まれる。
単純なものほど壊れにくいし、修理しやすいからである。パワーウインドウなどはもってのほかである。橋の無い川を渡るときに命取りになりかねないからである。
ガソリン代が高く、悪路の多いこの国では、自動車の耐久性と燃費が最優先される。
コスタリカはいわば世界最強の車を選抜する公開実地試験場のようなものである。
その厳しい淘汰の末に日本車が圧倒的シェアを占めている事実は製造業冥利に尽きるといえるのではないだろうか。いいものを作れば、政治介入や派手な宣伝などしなくても、人々に広く受け入れられるものである。
トヨタも環境にやさしいかどうかはなはだ怪しい燃料電池車などに社運をかけるよりも、このような長持ちする自動車を地道に作り、無期限のアフターサービスに徹してもらいたいものだ。それが何よりのエコロジーであり、おそらく真っ当な社会的使命である。
大工道具などのいわゆる「鉄器」も日本製が大変評価されている。
そういえばニュージーランドの大工さんも日本製の刃物やハンマーを持つことをステイタス・シンボルにしていたものだ。
国際的に評価される日本文化として寿司や漫画やゲームばかりが脚光を浴びがちだが、「すぐれた道具」こそが日本の底力という気がする。
大工道具から日本車まで、そのクオリティの高さは、おそらく江戸時代から連綿と続く頑固な職人精神に支えられてのことだろう。
いっぽうコスタリカにはコスタリカの注目すべき道具がある。
刃渡り60センチほどの大鉈で「Machete(マチェテ)」という。
これは中米で普遍的に使われているナイフで、エルサルバドル製が定番だそうだ。
一説ではマヤ起源の剣だとのことである。
アルフレッドたちも、日常の作業はほとんどこれ1本で済ませている。ジャングルの藪を切り開いたり、木を切り倒したり、ココナッツを割ったり、蛇から身を守ったり、いわゆる万能ナイフである。
男はみなこれを腰に下げて仕事に出かける。
熱帯雨林を案内してくれた現地の人も、この大鉈で道を切り開きながら先へ進むのだが、そのとき鳴り響くシャキーン、シャッキーンという音がなんとも心地いい。
いろいろな幅や長さのマチェテがどの町のハードウエア・ショップでも手に入る。
高価なものと思いきや、立派なものでも1本300円もしないという驚くべき安さである。
このことはこの大鉈がいかに生活に密着しているかを示している。
どの国でもそうだが、生活必需品は安いものだ。その国の価値観を知る手っ取り早い方法は、スーパーへ行って異常な安さの物を見つけることである。チューリッヒは世界で最も物価が高い都市だが、それでもチョコレートだけは安かった。
売られているマチェテは刃が未仕上げのままで、すぐに使うことはできない。
自分の手でせっせと磨ぎださなくてはならない。長さが長さだけに大変だが、それもよきかな。
牛皮製の鞘もなかなか装飾的で私はとても気に入った。
嬉しいことに、ここでの制作活動のご褒美として、地元の皆さんの厚意で典型的なマチェテを一本いただいた。
私もコスタリカの男として認められたということだろうか。
返礼に、日本から持参した竹割り鉈と竹引き鋸を差し上げた次第である。
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2007-09-13 Thu [ コスタリカ ]
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2007-09-11 Tue [ コスタリカ ]
by 日詰明男
この村に来てから毎日、夕刻になると「たたけたけ(フィボナッチ・ケチャック)」のワークショップをしている。もうかれこれ2週間になるだろうか。
もちろんここでは「たたけたけ」ではなく黒板には「TTKTK」と書き、「ててかてか」と発音させている。
最初のうちは、大人も子供も区別なく、まったくリズムが身体に入らないので途方にくれた。
日本ならば、30分もあれば基本的リズムは大抵の人がマスターしてしまうものだが、ここではもっとも単純な「たたけたけ」の5拍のリズムでさえ教えることが困難である。
これは単に教え方だけの問題ではないだろう。
この目に見えない障壁はなんだろうと私はずっと考えながらワークショップを続けた。
コスタリカの人はみんな音楽が好きだし、サルサを踊り、地元のお祭りのお囃子だと、みな太鼓を機関銃のように正確に叩く。リズム感はとてもいいはずである。
おそらく、音楽はすべて口伝で、楽譜を見る習慣というものがないのではないだろうか。
おしなべて「読み」と「打ち」がなかなか一致しないのである。
いっぽう日本人だって楽譜を読む習慣が決してあるとはいえない。
日本の場合、やはり短歌や俳句に親しむ文化的背景は大きいと思う。
日本語を読むときに、私たちは無意識に打楽器奏者が楽譜を読む時と同じ脳内変換をしているに違いない。
いわば日本語は「打楽器的な言語」といえるのではないだろうか。
それに対して、他の多くの言語は笛やバイオリンなどの「旋律的な言語」だと言える。
そういえば以前、ある日本人がフィボナッチ・ケチャックのワークショップのあと、次のような感想を言ったことを思い出した。
基本的リズム「ててかてか」は5拍で循環するが、厳密には2.5拍子と定義される。
ジャズの名曲「テイク・ファイブ」はまさしくこのリズムで書かれている。
その人は、キーボードでテイク・ファイブを流暢に弾けるそうだが、フィボナッチ・ケチャックの「たたけたけ」がなかなかうまく叩けなかったと告白した。
ちなみにその人はドイツで生まれたそうである。
さて、コスタリカでのフィボナッチ・ケチャックのその後の経過であるが、地元の人は戸惑いながらも皆おもしろがって、結構ついてきてくれた。
さながら放課後学校のような様相を呈した。
今やこの村では「ててかてか」が小さなブームである。
あきらめず、たっぷりと時間をかけただけあって、最近ようやく演奏らしい演奏ができるようになってきた。
中でも特に安定した演奏ができ、自己相似原理の完全な理解にまで至ったのは11歳の女の子と男の子、15歳の男子、大人はわずか一人である。
人数は少ないが確実にフィボナッチ・ケチャックの種子をコスタリカに植えられたと思う。
彼らは僕がここを去っても、この音楽を広げていってくれるだろう。
昨日はテレビ局の取材もあった。
数十年後の展開が楽しみである。
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2007-09-09 Sun [ コスタリカ ]
by 日詰明男
アルフレッドからコスタリカの行政サービスについていろいろ聞いてみた。小学校は6年間で原則として午前中のみ。
アルフレッドの村では45人の生徒に対し3人の先生という割合だそうだ。
教師のほかに5人の役職がある。校長、秘書、副校長、経理、そしてもう一人は万が一他の役職が何らかの理由で欠員となった場合代理となるために常駐しているという。校長が教室で教えることはない。
セカンダリースクールはいわゆる中高一貫6年教育で、朝7時から午後5時までみっちり授業がある。学費はもちろん無料だが、若干の給食費だけを払う。
200人の生徒に対し10人以上の教師がいる。
公教育では、どの地方でも平等に文部省の決めたカリキュラムを教える。
テストも頻繁にあるようだ。
大学受験のチャンスは1回きりである。
パスするのは20%前後であるからかなりの難関である。
3つの国立大学があり5年制である。学費は無料。
私立大学もいくつかあるがこちらは短期大学、単科大学といった位置づけらしい。
出会う子供は挨拶を大人同様に欠かさず、とても素直で大人の言うことを良くきく。
進学塾は無いわけではないそうだが、滞在している村では気配も無い。
小学生は、学校は午前中だけなので、午後は野山で泥だらけになって遊ぶ。
誰のお下がりか分からない自転車を、整備不良など全然気にもせずに子供たちは皆で共有しあって使っている。
同学年の女の子が歩いていると、男の子たちはさすがにラテン系で、ヒューヒューと口笛を吹いて美しさを褒め称える礼儀を忘れない。
ゲーム機で遊んでいる子供はついぞ見たことはないが、点々とある駄菓子屋のような店には必ず懐かしいスマートボールが数機置いてあり、大人や子供がたむろする「悪場所」となっている。
アルフレッドの次男は、小学生でありながら耕運機を操り、オイルパームの収穫などでは大活躍である。自動車の運転も既に習っているようだ。バッテリー不全の自動車を押しがけして発動させることさえやってのけたのには驚いた。
彼は、普段からすすんで大人の仕事の手伝っているのだろう、言葉は全然通じないのに、私が何をしようとしているのか察知し、気が利いた手助けをしてくれる。その落ち着き払った仕草は一人前の大人の風格である。ロープを縛る技術も一通り習得し、応用もしているようだ。そうかと思うと次の瞬間にはお母さんに甘えて駄々をこねたりするのである。
自営で農業を営むアルフレッドの家では、5人家族で月2000円の社会保険を払えば医療費は無料である。
この国では、たとえ外国人労働者であっても、お金のない人から医療費は取らないそうである。
少ない負担でここまでの福祉、教育行政が実現しているのは、税金を軍備や無駄な道路工事、原子力発電、政治家のパーティー券や政党助成金などに使っていないからだろう。
上水道は場所によって必ずしも利用できるわけではないが、引ける場合は5000円ほどの初期費用がかかり、月200円で30立方メートルまで使える。
下水の行政サービスはなく、各自トイレの水は浄化槽で、生活汚水は砂利や砂でろ過させて流している。
アルフレッドの近辺は家がまばらで、100m四方に数軒というのどかなところなので、都市部はどうなっているかはわからない。
ゴミはビールの缶やペットボトル、ビン、レジ袋など結構出ている。それらを分別せずに黒いゴミ袋に入れて、公共ゴミ処理サービスに出している。
人口が少ないからまだ問題にはならないのかもしれない。
アルフレッドの母親は1歳のときパナマからコスタリカへ移住してきた。
未だパナマ国籍である。
現大統領は月あたり約1万円の年金を国籍を問わず定住している老人に平等に支給している。1万円あれば一人が食べていくには十分だとのこと。
近くの海で魚や貝や海老は採り放題であり、たとえ現金収入がなくても餓えることはない。椰子の実も一年中実っている。
このように自然資源に恵まれ、基本的に豊かならば、人々はそんなに働かなくてもよさそうに思えるが、この国の男性は非常に良く働く。
朝6時から午後3時までが標準の労働時間のようだ。
シエスタは特に無い。
アルフレッドの場合は毎日朝5時から休日返上で働いている。
労働は食うための労働ではなく、生きがいや夢なのであろう。
「基本的に生きていける」という自信はこのように人を能動的にさせる。
労働=ボーナスなのであろう。
そうして得られた収入の一部を、貧しい人を助けることに使うことは全然苦ではないとアルフレッドは言った。
人々は皆楽観的である。
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