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コスタリカ報告11 このぼろぼろの紙幣を見て思う
by 日詰明男
社会は本来善意で成り立っている。
社会は善意を前提としている。
社会の起源は善意である。
経済の奔流は善意の連鎖である。
それは人間社会ばかりでなく、熱帯雨林の生態系も同様だろう。

コスタリカのような、あんなぼろぼろの紙幣や伝票を皆が信用して、あらゆる物事が回転しているのは人々の善意以外の何物でもないだろう。どこか路傍の無人野菜売り場を髣髴とさせる。
紙幣はぼろぼろであればあるほどそれは信頼されている証であり、その国の経済が順調であることを示しているのではないだろうか。
貨幣は「善意の符号」のひとつである。
「お金を払い、受け取る」という単純な交換行為には、無意識に社会への帰属感が伴うものであり、それは同時に無言の社会教育にもなっている。

個々人の善意の一挙手一投足が社会に受け入れられ、反映されるという実感がコスタリカでは生き生きと感じられる。
そのような不断の行為の積み重ねによって、徐々に人々の心に形成される好ましい帰属意識の総体を「愛国心」とか「郷土愛」と呼ぶならば私は同意する。
けっして国歌を歌ったり国旗を掲げたりすることを強制されて根付くものではない。

子供のころ、運動会で綱引きをしたときに、こんなに大勢なのだから自分ひとりが力を緩めても何も変わらないだろうと思い、こっそり手を離してみたことがあった。
するとみるみる相手側に引っ張られ、あわてて力を入れなおしたことをよく覚えている。
標本が大数に至っているからといって、個人の行為が誤差の中に埋没することはないのである。
善意が社会を支えているというのはそういう力学である。
この綱引きゲームの対戦相手は熱力学の第二法則「エントロピーの法則」である。

ところが、その善意がことごとくカフカ的官僚機構のブラックホールに吸い込まれ、仇で返されてばかりだったらどうだろう?
国民は憔悴するばかりであろう。
国民が善意を放棄するのも無理からぬことである。
現代の日本はそういう状況に陥っていると思う。
綱引きの喩えを再び使うならば、対戦相手はエントロピーの法則ではなく、綱の行く手は悪意ある者の手によって滑車がかけられており、その綱はそのままこちらに戻ってきていて、味方の足に結び付けられていた、というようなものである。

たとえば投機行為は他人の損失を前提とした利益追求であり、これは正真正銘の悪意である。
社会に寄生する「マフィア」の存在と実質的に同等である。
にもかかわらず、現代経済は投機行為を前提とし、国家がそれを奨励しているほどである。
一億総マフィアになってどうするのか?

「悪意に基づく社会」は「母を出産した息子」と同様の名辞矛盾であり、ナンセンスである。


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