2007-07-18 Wed [ 原子力発電 ]
by 日詰明男
柏崎刈羽原子力発電所における原因不明の漏水が問題になっている。原子力発電所建設の現場監督をしていたエンジニア故平井憲夫氏による「原発震災を防ごう」という驚くべき報告に目を通そう。
http://members.at.infoseek.co.jp/genpatsu_shinsai/
この著者は発電所内部での恒常的な被爆により、癌で亡くなったそうである。
こんなものが日本には52基もあるとは。。。
招かれざる未来への遺産以外のなにものでもない。
|| 15:48 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-07-14 Sat [ 作品 ]
by 日詰明男
向陽舎「薔薇と海賊」を見た。http://koyosha.blog107.fc2.com/
意表をつく冒頭部から、気が付けば劇中に引き込まれていた。
2時間に及ぶ上演時間が全く長く感じられなかった。
面白い演劇である。
役者も生き生きと演じていた。
間口の広い作品だと思う。
照明や音響の演出も心憎いほど行き届いていた。
三島の戯曲をいくつか観たが、一貫してソクラテス=プラトンが指し示した「狂気のイデア世界」を現前させようとしているように見える。
それこそが真のリアリティなのだと。
劇中劇、劇中実、実中実、実中劇の階層が入り組んだ虚実の反転。
あらゆる価値観の転覆。
これ以上の革命があるだろうか。
それを三島は最後まで夢見た人だったのだろう。
人間が人間の演ずる劇を見て楽しむということ、それ自体が、考えれば考えるほど面白いことだ。楽しかった劇を見終わった後にいつも思う。
「演劇」という仕掛けもまたギリシャが起源である。
人間の滑稽さがとてもいとおしく、そんな人間に生まれてよかったと思う。
会場の天井からは色とりどりの色水が入った風船が吊るされていた。
それを主人公の松山帝一が玩ぶ。
幼児の頃(40年以上前)聴いた童謡「ドロップスの唄」を思い出した。
「むかし 泣き虫かみさまが
朝やけ見て 泣いて
夕やけ見て 泣いて
真っ赤な涙が ポロン ポロン
黄色い涙が ポロン ポロン
それが世界中に 散らばって
今では ドロップス
子どもがなめます ペロン ペロン
おとながなめます ペロン ペロン
むかし 泣き虫かみさまが
悲しくても 泣いて
うれしくても 泣いて
すっぱい涙が ポロン ポロン
あまい涙が ポロン ポロン
それが世界中に 散らばって
今では ドロップス
子どもが食べます チュルン チュルン
おとなが食べます チュルン チュルン」(まど・みちお作詞/大中恩作曲)
あの唄好きだったなあ。
|| 15:06 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-07-14 Sat [ 政治経済 ]
by 日詰明男
書店に行くと、平積みにされた雑誌の中に、聖セバスチャンとして描かれた三島由紀夫の像(横尾忠則作「理想の実現」)が目に入った。STUDIO VOICEの表紙である。
なんと今号のテーマは「政治を考える」である。
緊急特集といった風情だ。
http://www.infaspub.co.jp/studio-voice/newest.html
STUDIO VOICEがこのような特集に打って出るということは、よほどのことである。
時代のさしせまった空気を、もっとも敏感に感知する人たち。
こういうところから口火が切られるのだろう。
企画は柄甚原権三とある。
巻頭言には
「・・・
さまざまな局面で、あなたは行く手を阻まれる。
そこで発見するのは、敵とそっくりな姿をしたあなた自身だ。
・・・ 」
とあり、問題の急所を見事に言い当てている。
末尾は
「動かそう。」
の一語で結ばれ、心に確かに響いた。
記事内容も先鋭で、他の自称リベラルな言論雑誌よりはるかに琴線に触れるところが多い。
寄稿者は田中康夫、宮台真司、大澤真幸、外山恒一、竹熊健太郎、雨宮処凛などなど。
いままで沈黙するほかなかった、あるいはその反動で強がりを言うしかない「虐げられた若者たち」が、いよいよ動かなければどうにもならないと行動を起こし始めている。
鉄道人身事故が毎日のように起こり、それがあたりまえになっている恐ろしい日常。
この国は今ベトナム戦争の真只中にある。
|| 12:13 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-07-07 Sat [ 未分類 ]
by 日詰明男
今日は七夕、といわれる。ところがそれは大間違い。
本来の七夕は今年は8月19日。
本来の正月から数えて7つ目の新月から7番めの月。
その日から満月までがいわゆるアジアにおけるお盆の大セレモニーである。
まさに「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」の頃合である。
当然梅雨空であるわけもなく、満天の星の下で先祖は宇宙に思い思いの夢想を広げていた。
日本以外のアジア諸国は太陰暦をかたくなに守っている。
そうあるべきだ。
天体運行と同期しない祭りに何の意味があろう。
太陽暦はあくまでもビジネス時計として割り切って使えばよい。
祭りに月は主役である。
月齢に従った祭りを取り戻すことが急務である。
それだけでも、人の心はもっと豊かになるだろう。
驚くべきことに、日本では僧侶ですらそれほど月齢にこだわっていない。
聖職者もビジネスに徹しているということだろうか。
一見自然に近いと思われる農家も、肥料や農薬のおかげで暦を以前ほど優先していないようだ。
意外なところで、サーファーほど月齢を気にしている人々もいない。
おいしい波に直接影響するからである。
彼らは携帯の待ち受け画面に毎日の月の状態を表示させているほどだとも聞く。
現代で最も自然と近いところで生き生きと生活しているのは茶髪のサーファーかもしれない。
聖職者としての彼らの話は傾聴に値する。
|| 23:43 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-07-03 Tue [ 作品 ]
|| 22:24 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-06-25 Mon [ 作品 ]
by 日詰明男
広島での個展の記録をまとめました。またどこかで展示する機会があればと思います。
特に音楽に注目してください。
http://www.starcage.org/hiroshima/index_j.html
niftyの容量も窮屈になったので、今後、徐々にサイトの引越しをする予定です。
新しいホームページのアドレスは
http://www.starcage.org/
です。
時々覗いてください。
|| 13:31 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-06-08 Fri [ 作品 ]
by 日詰明男
6月12日から17日まで広島のGallery Gなるところで個展を開きます。http://www.starcage.org/hiroshima/hiroshima.html
ギャラリー内に高さ5mほどの孟宗竹の茶室を建てます。
茶室内に自由にお入り下さい。
見上げた眺めは黄金比の葉序そのもの。
音や光を最も効率よく乱反射します。
内部空間は大人が7人ほど車座になれる広さです。
茶室といっても茶を点てるわけではありません。
黄金比の音楽を点てる。
低周波を鳴らすことができる特殊なスピーカーを壁に仕込み、茶室全体を黄金比の音色、黄金比の音階、黄金比のリズムでガランゴロンと響かせる趣向です。
未知の音楽との第一種接近遭遇。
刻一刻と変化する悠久の音楽をおたのしみください。
お近くの方はぜひお出かけ下さい。
|| 22:44 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-05-26 Sat [ 政治経済 ]
by 日詰明男
国民投票法が通り、現政権は憲法改悪に向けて着々と準備を進めている。彼らは自衛隊を晴れて正規軍にしようとしている。
恐怖は肥大し、また殺し合いが始まる。
来る国民投票は「憲法を守るか守らないか」を争点にすべきではない。
憲法9条は「守る」だけでは不十分である。
「憲法に9条が書かれてある」ことだけで安心していた護憲派は反省すべきである。
今まで憲法は一度たりとも守られたことはない。無視され続けただけである。
憲法違反がことごとく見過ごされ、無意味な防衛費がいつのまにか世界第三位にも膨らんでしまった。
「世界に誇れる憲法」とはお世辞にもいえない。
このままでは「どうせ今の憲法でも自衛隊は事実上の軍隊でしょ。ならお墨付きをあたえてあげればいいじゃん」ということになる。
使ってなんぼの憲法である。
コスタリカのように使ってこなかったツケが今、このような形で回ってきたともいえよう。
そこで、こう提案しよう。
国民投票で「憲法を変えない」という決定が下された暁には、即刻自衛隊は憲法違反として解散するのが筋である。
つまり「自衛隊を解散するかしないか」に焦点を絞って国民投票に臨むべきである。
これならば国民投票の甲斐がある。
国民投票は護憲派にとって千載一遇のチャンスに化ける。
劣勢は攻勢に転じうる。
60年めにして初めて国民が9条を能動的に行使できるかもしれない。
この国民投票は平和憲法を使う最後のチャンスになるかもしれない。
憲法の番人であるはずの司法は60年間機能しなかったのだから、国民が直接裁くしかない。
*
護憲派の諸君。
国民が9条をはじめて行使するチャンスを、安倍政権が用意してくれた。
憲法違反を重ね続け、世界第三位にも膨らんだ無意味な防衛費。
自衛隊を解散して浮いた資金をどう有効に使うか具体的で現実的な夢を語ろう!
コスタリカに倣って、「兵士の数だけ教師を!」でもいい。
「兵器の数だけ図書館を」もいいだろう。
防衛費は税金をドブに捨てるようなものだということを論理的に証明しよう。
年間防衛費は4兆8563億円、夕張市の借金の77倍である。
防衛費が浮けば、借金で苦しむ他の地方自治体もひっくるめて、ゼロから再出発させられるのである。
その方がはるかにましだ。
これもまた日本人は「自己責任」と言って助けようとしないのだろうか?
かつて政府は銀行に莫大な公的資金を投入し、あげくの果てに外資系に払い下げたではないか。
現政権は外国の銀行を助け、地方自治体を見捨てたのである。
もし自衛隊が解散したとして、今までアメリカから言われるままに気前良く買い続けた兵器をどうするか?
いいアイデアがある。
いたるところに野ざらしにして風化させればよい。
自分たちがいかに愚かで、無駄なことにお金を費やしてきたか永遠に忘れないようにするために。
公正な国民投票が行われるよう、選挙管理委員も国民がしっかり監視する必要があるだろう。
最近の選挙のやり方を見る限りでは、この国の選挙は国連に監視してもらう必要があるかもしれない。
|| 01:47 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-05-25 Fri [ 政治経済 ]
by 日詰明男
永田町に建つ国立国会図書館にはほとんどすべての書籍が収められ、国民は自由に閲覧できる。私も利用したことがあるが、大変便利なサービスである。
ありあまるコンピュータ端末から書籍を検索し、15分も待てば目的の書物が自動的にカウンターに届くシステムである。
東京でしかこのサービスを享受できないのはとても不公平だと思う。
国会図書館級の図書館を各市町村に作ってはどうだろう?
「それは夢物語だ」と高を括らず、ちょっと耳を傾けて欲しい。
周知の通り、現在の国会図書館に収められている書籍はすべて著者あるいは出版社から寄付されたものである。
私は各市町村すべての図書館に著者/出版社は本を寄付すべきだと言っているのではない。
そうではなく、各市町村すべての図書館が出版された本をすべて買い上げてはどうか、と提案したいのである。
それを荒唐無稽と感じるだろうか?
たとえば各地で負の財産となっているダムや箱物公共施設の建設に費やした税金を、もし本の購入にあてたらどうなるか比べてみよう。
ダムなどの大規模公共工事はどういうわけか500億円前後と相場が決まっているらしい。
一方、日本で出版される本は年間7万点余りであり、一冊の値段の平均は約1200円である。
つまり年間に出版される本を、片っ端から1冊ずつ買い上げたとしても8800万円である。
ダム一基作る資金で568年分の書籍を買い続けることができる計算である。
年間防衛予算ではどうか?
4兆8563億円の年間防衛費を当てれば、実に55000年分の新刊をすべて購入できる。
現在市町村は2300ほどあるから、それで割れば一館当たり24年分の書籍購入が可能である。
強調するが、これはたった一年分の防衛費を使った場合の話である。
このように、国立国会図書館を各地に作ることは不可能ではないし、税金のよほど活きた使い道ではないだろうか。
国立国会図書館の本はいわば雛形見本である。
立ち読みで済むものは図書館の雛形を読めば十分である。
本当に気に入った本は、誰でも手元に置きたくなるもの。
その場合はあらためて書店に発注して購入し、私物にすればよい。
全国で約2300の図書館が無条件に新刊本を買い上げてくれることが約束されていれば、印刷製本の経費程度は確保されるので、出版したくても資金的に踏み切れなかった人には朗報だろう。
ある意味、全国の図書館が出版経費を助成するものととらえても良い。
これを本の価格の基準としてはどうか。
つまり、図書館以外で本が売れた場合にはじめて印税や利益が発生するというルールで市場価格を決めればよい。
こうすれば本の価格は従来よりかなり低く押さえられ、優れた本は売れるべくして売れるだろう。
従来の本の価格は、ほとんど売り手側の言い値で決められている。
再販制度などというわけのわからない慣習も未だに幅をきかせている。
諸悪の根源は明らかで、常軌を逸した書籍流通システム(大手取次店の寡占)に尽きる。
出版社は必要以上の部数を出版し、宣伝広告を無闇にメディアに流し、流通は大手取次店に完全に仕切られ、書店は取次店の意向に沿った陳列をし、そしてその大半が返本され処分される。
これでは紙資源も無駄になるし、なにより本の価格に以上のリスクや中間マージンが上乗せされるから、本の価格は不当に高くならざるを得ない。
だからますます本が売れず、出版社も著者も読者も皆不幸になっている。
すべては取次店帝国に奉仕する仕組みだといえよう。
各市町村に国立国会図書館ができれば、大手取次店の存在理由はなくなる。
そして著者、出版社、読者が最大の恩恵を享受するだろう。
予想される反論
1.「国立図書館を各市町村に作られたら一般書店は困るではないか」
おそらくそうはならないだろう。存亡の危機に直面するのは中途半端に大規模な大型書店だけだろう。(店舗床面積だけを誇る大規模書店の書棚の希薄さに辟易している利用者は多いのではないだろうか?)
むしろ小規模な書店の意義こそ高まるはずである。
顧客のニーズを踏まえ、膨大な出版情報から厳選し、センスの行き届いた書籍リストを顧客に提示する役目はますます必要とされるし、創造的な仕事でもある。
ちょうど敬愛する人の家に招かれて書斎の本棚を眺めたときのことを想像してほしい。背表紙の配列が多くを語り、興味をそそられ、思わす本を手に取ってしまった経験が誰しもあるだろう。
書店の個性はこのように開花するだろう。
かくして本当に求められている本だけが増刷され、著者や出版社に正当な利潤が入るようになる。
時代に求められなかった本はもちろん利潤を生まないが、図書館が購入してくれるのでそれほど深刻な損害にはならない。
2. 「出版に経費がかからなければ、安易な出版が異常に増えるのではないか?」
図書館での「立ち読み」で済むような内容の本は、確実に利潤を生まないという点に注目して欲しい。
利潤を生まない出版に労力を払う人は減るだろう。
おそらく出版総数は減りこそすれ、増えることはないと思う。
とはいえ利潤を度外視してまでも出版しようとする人は確実に増えるだろう。
そういう人はそれだけ表現したいことがあるのだからやむをえない。
いわゆる「表現の自由」である。
出版の大変な労力を思えば、その数は増えたとしても高が知れている。
3. 「そんなに膨大な書籍を物理的に収蔵できるのか?」
それが不可能ではないことは、現に永田町の一等地で、すべての書籍を収蔵し続けている国立国会図書館が実証している。
最近のデータによると、自動書庫システムを使って閉架書庫とすれば、10m立方の空間があれば7万冊など軽く収蔵できるそうである。
年々一辺10mの立方体が四方八方に増築され、本当に映画「CUBE」のような建築が実現してしまうかもしれない。
4. 「本のマイクロフィルムに変換したり、データ化したりすればもっと小さくなるのでは?」
そもそも情報をできるだけコンパクトにまとめるべく発明されたものが「本」である。
標本や美術作品を収蔵しなければならない博物館や美術館と比べても、図書館の収蔵効率が抜きん出て高いのは当たり前といえよう。
「本」という十分に小さくまとめられた情報を、さらにマイクロチップなどに圧縮する必要はないと私は思う。それは蛇足というものである。
まして、本の重さや紙の手触り、インクの匂いなども決して落とすことのできない書物の魅力なのだから。
5. 「大手取次店は既得権を守ろうとして徹底的に妨害するのでは?」
取次店が、著者と出版社と読者の利益を妨害するのだとしたら、それは宿主を滅ぼす寄生生物以外のなにものでもない。
だが、取次店はそのネットワークを生かして、このまま雑誌や新聞の流通に特化できると思う。
図書館や書店に加え「雑誌店」として住み分けできるだろう。
書籍を雑誌化し、書店をコンビニ化したのは他ならぬ彼ら取次店なのであり、彼らの最も得意とする分野である。
|| 21:27 | comments (x) | trackback (x) | △ ||
2007-05-20 Sun [ 未分類 ]
by 日詰明男
映画「博士の愛した数式」をテレビで見た。原作は読んでいないが、映画から類推するに、数学に過剰なロマンを与えすぎていることが伺われる。
「数学は世俗とは無縁の抽象的真実」という認識はあまりにもステロタイプである。
数学者を浮世離れした人格として描きがちな背景には、作家の数学コンプレックスがあるのだろう。
こうした表現は数学をかえって近寄りがたいものにしてしまう。
数学は世俗だろうがなんだろうが遍在する。
世俗を見くびってはならない。
「数学は現実の生のデータである」(スペンサー=ブラウン)
オイラーの公式e^(πi)+1=0は確かに美しいが、まるで信仰の対象のように取り上げるのはいかがなものかと思う。
オイラーが生きていたら、このような無用な神秘化を決して歓迎しないだろう。
長沼伸一郎著「物理数学の直観的方法」39-48頁を読むことをお勧めする。
わずか10頁そこそこで、この等式の「あたりまえさ」が中学生でも理解できるように解説されている。
あたりまえだからといってオイラーの功績が過小評価されるわけではなく、むしろ全く逆である。
当たり前のことにかぎって、人はなかなか分からないものである。
日常から神秘を発見する仕事も重要だが、今まで神秘と思っていたものが氷解し、日常化する瞬間にも、人は大きな感動を経験する。
いろいろ批判はあるが、この映画のラストシーンは出色だった。
これは文学では表現できない領域である。
演劇でもこれは難しいだろう。
映画ならではの仕掛けをうまく使った。
原作の不満を払拭し、昇華した観がある。
無常を超越した「時間」の哲学。
「逆流する時間」がさりげなく描かれている。
私は黒澤明の「夢」やタルコフスキーの手法と同質のものを見た。
早速調べると、この映画監督、小泉堯史氏はやはり黒澤の弟子だったそうだ。
彼は黒澤の良き後継者かもしれない。
|| 01:00 | comments (x) | trackback (x) | △ ||