2007-05-25 Fri [ 政治経済 ]
by 日詰明男
永田町に建つ国立国会図書館にはほとんどすべての書籍が収められ、国民は自由に閲覧できる。私も利用したことがあるが、大変便利なサービスである。
ありあまるコンピュータ端末から書籍を検索し、15分も待てば目的の書物が自動的にカウンターに届くシステムである。
東京でしかこのサービスを享受できないのはとても不公平だと思う。
国会図書館級の図書館を各市町村に作ってはどうだろう?
「それは夢物語だ」と高を括らず、ちょっと耳を傾けて欲しい。
周知の通り、現在の国会図書館に収められている書籍はすべて著者あるいは出版社から寄付されたものである。
私は各市町村すべての図書館に著者/出版社は本を寄付すべきだと言っているのではない。
そうではなく、各市町村すべての図書館が出版された本をすべて買い上げてはどうか、と提案したいのである。
それを荒唐無稽と感じるだろうか?
たとえば各地で負の財産となっているダムや箱物公共施設の建設に費やした税金を、もし本の購入にあてたらどうなるか比べてみよう。
ダムなどの大規模公共工事はどういうわけか500億円前後と相場が決まっているらしい。
一方、日本で出版される本は年間7万点余りであり、一冊の値段の平均は約1200円である。
つまり年間に出版される本を、片っ端から1冊ずつ買い上げたとしても8800万円である。
ダム一基作る資金で568年分の書籍を買い続けることができる計算である。
年間防衛予算ではどうか?
4兆8563億円の年間防衛費を当てれば、実に55000年分の新刊をすべて購入できる。
現在市町村は2300ほどあるから、それで割れば一館当たり24年分の書籍購入が可能である。
強調するが、これはたった一年分の防衛費を使った場合の話である。
このように、国立国会図書館を各地に作ることは不可能ではないし、税金のよほど活きた使い道ではないだろうか。
国立国会図書館の本はいわば雛形見本である。
立ち読みで済むものは図書館の雛形を読めば十分である。
本当に気に入った本は、誰でも手元に置きたくなるもの。
その場合はあらためて書店に発注して購入し、私物にすればよい。
全国で約2300の図書館が無条件に新刊本を買い上げてくれることが約束されていれば、印刷製本の経費程度は確保されるので、出版したくても資金的に踏み切れなかった人には朗報だろう。
ある意味、全国の図書館が出版経費を助成するものととらえても良い。
これを本の価格の基準としてはどうか。
つまり、図書館以外で本が売れた場合にはじめて印税や利益が発生するというルールで市場価格を決めればよい。
こうすれば本の価格は従来よりかなり低く押さえられ、優れた本は売れるべくして売れるだろう。
従来の本の価格は、ほとんど売り手側の言い値で決められている。
再販制度などというわけのわからない慣習も未だに幅をきかせている。
諸悪の根源は明らかで、常軌を逸した書籍流通システム(大手取次店の寡占)に尽きる。
出版社は必要以上の部数を出版し、宣伝広告を無闇にメディアに流し、流通は大手取次店に完全に仕切られ、書店は取次店の意向に沿った陳列をし、そしてその大半が返本され処分される。
これでは紙資源も無駄になるし、なにより本の価格に以上のリスクや中間マージンが上乗せされるから、本の価格は不当に高くならざるを得ない。
だからますます本が売れず、出版社も著者も読者も皆不幸になっている。
すべては取次店帝国に奉仕する仕組みだといえよう。
各市町村に国立国会図書館ができれば、大手取次店の存在理由はなくなる。
そして著者、出版社、読者が最大の恩恵を享受するだろう。
予想される反論
1.「国立図書館を各市町村に作られたら一般書店は困るではないか」
おそらくそうはならないだろう。存亡の危機に直面するのは中途半端に大規模な大型書店だけだろう。(店舗床面積だけを誇る大規模書店の書棚の希薄さに辟易している利用者は多いのではないだろうか?)
むしろ小規模な書店の意義こそ高まるはずである。
顧客のニーズを踏まえ、膨大な出版情報から厳選し、センスの行き届いた書籍リストを顧客に提示する役目はますます必要とされるし、創造的な仕事でもある。
ちょうど敬愛する人の家に招かれて書斎の本棚を眺めたときのことを想像してほしい。背表紙の配列が多くを語り、興味をそそられ、思わす本を手に取ってしまった経験が誰しもあるだろう。
書店の個性はこのように開花するだろう。
かくして本当に求められている本だけが増刷され、著者や出版社に正当な利潤が入るようになる。
時代に求められなかった本はもちろん利潤を生まないが、図書館が購入してくれるのでそれほど深刻な損害にはならない。
2. 「出版に経費がかからなければ、安易な出版が異常に増えるのではないか?」
図書館での「立ち読み」で済むような内容の本は、確実に利潤を生まないという点に注目して欲しい。
利潤を生まない出版に労力を払う人は減るだろう。
おそらく出版総数は減りこそすれ、増えることはないと思う。
とはいえ利潤を度外視してまでも出版しようとする人は確実に増えるだろう。
そういう人はそれだけ表現したいことがあるのだからやむをえない。
いわゆる「表現の自由」である。
出版の大変な労力を思えば、その数は増えたとしても高が知れている。
3. 「そんなに膨大な書籍を物理的に収蔵できるのか?」
それが不可能ではないことは、現に永田町の一等地で、すべての書籍を収蔵し続けている国立国会図書館が実証している。
最近のデータによると、自動書庫システムを使って閉架書庫とすれば、10m立方の空間があれば7万冊など軽く収蔵できるそうである。
年々一辺10mの立方体が四方八方に増築され、本当に映画「CUBE」のような建築が実現してしまうかもしれない。
4. 「本のマイクロフィルムに変換したり、データ化したりすればもっと小さくなるのでは?」
そもそも情報をできるだけコンパクトにまとめるべく発明されたものが「本」である。
標本や美術作品を収蔵しなければならない博物館や美術館と比べても、図書館の収蔵効率が抜きん出て高いのは当たり前といえよう。
「本」という十分に小さくまとめられた情報を、さらにマイクロチップなどに圧縮する必要はないと私は思う。それは蛇足というものである。
まして、本の重さや紙の手触り、インクの匂いなども決して落とすことのできない書物の魅力なのだから。
5. 「大手取次店は既得権を守ろうとして徹底的に妨害するのでは?」
取次店が、著者と出版社と読者の利益を妨害するのだとしたら、それは宿主を滅ぼす寄生生物以外のなにものでもない。
だが、取次店はそのネットワークを生かして、このまま雑誌や新聞の流通に特化できると思う。
図書館や書店に加え「雑誌店」として住み分けできるだろう。
書籍を雑誌化し、書店をコンビニ化したのは他ならぬ彼ら取次店なのであり、彼らの最も得意とする分野である。
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