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憲法の使い方:おそるべきコスタリカ
by 日詰明男
コスタリカは1949年以来、平和憲法をもち、軍備を持たない。
「兵士の数ほど教師を」というスローガンは理想に満ちあふれている。

ところがブッシュ大統領のイラク派兵を、あろうことかコスタリカ大統領は小泉のように支持してしまった。
それを一大学生のロベルト・サモラ氏が憲法違反として直ちに憲法裁判所に訴え、勝訴した話は有名である。
大統領はその判決に従って公式に訂正したという。
この経緯は伊藤千尋氏のサイトに詳しい。
http://www.jicl.jp/hitokoto/backnumber/20050808.html

一事が万事、コスタリカの国民性を象徴するエピソードだ。

一大学生が国家を動かしたわけだから、日本でもかなり話題になり、2005年2月に彼は来日しでいる。
私もTVの報道番組「news 23」で彼が取材されていたのを見た。
彼は日本の最高裁判所の建物の前に立ち「こんなに威圧的な裁判所ではいけない。もっと庶民にとって門戸の開かれたものでなくては。」と言っていたのを今でも覚えている。
ちなみに日本の最高裁判所は1974年に岡田新一によって設計された。彼はこの建築で日本建築学会賞を授与されている。
普通の感覚からすれば、この建築はナチスまがいの典型的なファシズム建築の類であり、私は賞賛する人の気が知れない。
中に入ってみようという気がまったく起こらない建築である。
体制におもねる判決しか出さないのも無理からぬことだと思う。
あの建築自体を憲法違反として訴えたい気分だ。

伊藤千尋氏のサイトによると、コスタリカでは8歳の児童が憲法裁判所に提訴し、勝訴した事例さえあるという。おそるべき子供たち、である。
国民は皆、自分の生命を守るために憲法の使い方を子供の頃から学ぶそうである。

片や、毎日のように大人が電車に投身自殺をし、乗り合わせた女子中学生が自殺者に対して暴言を吐く日本。
もしコスタリカのように憲法が使われていたならば、ほとんどの人が救われていただろう。
平和に貢献しようとする勇気ある若者に対して「自己責任」と総バッシングした日本人。
もしコスタリカのように憲法が使われていたならば、彼らは英雄だっただろう。

問題は「憲法を変えるか変えないか」ではなく「使うか使わないか」なのではないか?

ずばぬけた平和主義、民衆の側に立って機能する裁判所、利権による腐敗の起こりにくい選挙制度など、コスタリカから学ぶべきことはあまりにも多い。

もちろんコスタリカといえども少なからず問題や矛盾を抱えてはいるだろう。どの国にも光と影はあり、完全な国家などありえない。評論家の中には、コスタリカの矛盾だけをあげつらって「コスタリカ神話は幻想だ」と語る人もいる。
しかしこの国で効を奏した試みは誰にも否定できないし、他の国では見失われている好ましい国民性に対して、何が悲しゅうて目をそらす必要があるだろうか?

熱帯雨林を保護し、生態系から学ぼうとする姿勢も国民に浸透しているようだ。もちろん原子力発電など一基もない。この感性も平和憲法と無関係ではない。

コスタリカは九州と四国を合わせたほどの面積で、人口はわずか400万人。そのうちの25%は無条件に受け入れた難民だが、貧富の差はさほどではなく、教育にも差別はないという。

コスタリカと比較するに、日本という国家の規模は大きくなりすぎているのかもしれない。
日本はもはや大国であり、コスタリカのようなコモンセンスが形成されることはおよそありえないことに思えてくる。
「国」がヒューマンスケールを超えないためには、せいぜい400万か 500万規模で自治を目指すぐらいが限界なのかもしれない。
とすると、日本は県レベルに解体してしかるべきなのか。
借金をチャラにして、県よ、完全自治をめざしてゼロから出発せよ!と言いたいところだが、「独立」を軽々しく口にすることには特別なリスクが伴う。
秩父事件やチェチンがそうだったように、国家はこうした動きを徹底的に滅ぼそうとするから注意が必要である。東チモール独立もおだやかでは済まなかった。
国家はそういう習性のものである。

その「国家」のえげつない衝動はどこに由来するか。

口では偉そうなことを言っているが、結局のところ、既得特権を有する官僚、世襲政治家一族、その一族に食い込んだ企業役員が永遠に貴族として栄えようとする欲望、ただそれだけのことである。
国家が大きくなればなるほど彼らはスケールメリットを恣に享受できる。
そんな彼らにとって現憲法は目の上のたんこぶ以外のなにものでもなく、取り除きたくて仕方がないのだろう。


|| 11:08 | comments (x) | trackback (x) | ||
憲法9条をめぐる太田光と宮台真司の対談
by 日詰明男
今日は憲法記念の日。
世論は憲法改悪へ向かって着々と誘導されているように感じる。

ノーベル平和賞がスーチー女史やダライ・ラマの強い盾となっているように、9条は太田光が提案したように世界遺産等で守られるしかないのかもしれない。
事は緊急を要してきた。

約2年前に書かれたCesaro氏のブログから引用しよう。


|| 08:54 | comments (x) | trackback (x) | ||
恐るべき外山恒一
by 日詰明男
火の国熊本で、外山恒一氏はまたすごい行動に打って出たようです。

http://www.voiceblog.jp/fmc/329713.html

誰ができるか、こんなこと?

彼は以前こう書いている。
「芸術が力を持つためには、芸術を自称してはならない」


|| 22:44 | comments (x) | trackback (x) | ||
蚊帳の外から都知事選をみる 2
by 日詰明男
東京都知事選は石原慎太郎が大勝した。
石原による都政の私物化を、東京都民は支持したわけだ。
東京都民はご苦労なことである。

外山氏は15,059票を獲得したようだ。
彼は「選挙は無意味だ」と説いて臨んだわけだから、0票でイーブン。
票が入れば入ったで、それは彼の活動の妨げになるものではない。
つまり彼のロジックでは「負け」はありえないのである。
クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言うようなものである。
彼としては今回の活動で若干10人の塾生が集まれば良しというところであろう。

方向が全く違うとはいえ、彼の戦略は小泉首相の手法のパロディにも見える。
「自民党をぶっつぶす」と威勢よく息巻いて首相になり、「痛みを伴う改革」というスローガンを繰り返し繰り返し言い続けた。
小泉の改革は失敗すればするほど痛みが伴うゆえに評価されるわけである。
どう転んでも責任を取らずにすむわけだ。
だから国民の大半は、生活が明らかに苦しくなってきてもなお、その「痛み」ゆえに「勝ち組」に属しているという幻想に浸っていられるのである。
国策捜査等で相対的敗者がマスコミにつるし上げられるたびに、国民はテレビの前で「自己責任」とあざ笑い、自分が勝ち組であることを確認する。
こうした優越感を与えておけば、国民の不満の矛先がお上へ向くことはない。

この構図、どこかで聞いたことがある。
それはこんな話である。

飼い犬に飽き、餌代もかかるので、その主人は犬を保健所に連れて行くことにした。
ひさしぶりに散歩に出かけるそぶりを見せ、犬をだまして外に出す。
犬は今日の散歩の行く先が「死」であることも知らず、無邪気に尻尾を振る。

主人と犬が鼻歌交じりに保健所のエントランスに入ろうとすると、門の脇に座り込んでいる動物愛護の運動家がいた。
運動家は、飼い主の前に立ちふさがり、思いとどまるよう説得をはじめた。
飼い主はまったく意に介さず、見知らぬ若造に意見されたこと自体に腹を立て、「失礼だぞ」と恫喝し、二人は口論となる。
犬は主人の顔色を伺い、運動家を主人の敵と判断し、激しく吠え立て噛みつこうとしたという。犬も「そーだ、そーだ、おまえは失礼だ!」と言っているかのようだ。
運動家がひるんだすきに、犬と飼い主は保健所の敷地に入っていった。

犬は振り向きざま「どうだ、ボクのご主人様はエラいのだぞ」と勝ち誇ったように運動家を一瞥し、尻尾を立てて主人に付いていった。
その忠犬が、そのまま保健所で処分されたことはいうまでもない。

「自己責任」を振りかざして吠えたてる国民の大多数は、まるでこの不憫に飼いならされた犬のようだ。

相対弱者を嘲笑する陰湿な笑いが蔓延する日本で、外山恒一氏は最高純度の笑いをひさびさに提供してくれた。
時の権力を笑い飛ばす道化はいつの時代も必要だ。
ギリシアの哲学者ソクラテスやディオゲネスがそうだったように。
その方が、世界ははるかに面白い。
この「表現の自由」を手放したらおしまいである。

あのアメリカでさえ、マイケル・ムーアのようなアーティストが活動できる余地がある。
スティーヴン・コルベアが官邸晩餐会で打ったブッシュほめ殺しパフォーマンスも、アメリカのマスコミから徹底的に無視されたが、未だにyoutubeで見られるようだ。
http://video.google.com/videoplay?docid=-869183917758574879



|| 10:51 | comments (x) | trackback (x) | ||
蚊帳の外から都知事選をみる
by 日詰明男
所用があって東京へ出かけた。

桜は散りかけとはいえ、やはりきれいなものだった。
ソメイヨシノはいわば人工的なクローン植物。
文字通りの「あだ花」である。
資本主義経済とヴァーチャル社会の最右翼=東京にこそふさわしい。

その東京都では一週間後に都知事選控え、町のあちこちで候補者公示の掲示板を見かけた。

あれ?
なにか異様な風情。
肖像ナシの文字だけのポスターが3枚もある!
コンビニのコピー機で印刷しただけのものと思われるポスターもあり。
こんな選挙がかつて世界であっただろうか?
文化人類学的な興味から、おもわず写真を撮ってしまった。

頬をほんのり赤らめて、化粧あるいは修正したと思われる、さくらきんぞうの肖像もかわいい。

トンデモ都市「東京」もいよいよ最終ステージへ足を踏み入れた感がある。
将来、若桑みどり氏あるいはその後継者が、平成18年の図像学トピックとして必ずや取り上げるだろう。

中でもいちばん目をひいたのは、一見怪文書に見える肖像無しポスター。

外山恒一(とやま こういち、1970年7月26日 - )
内容を読むと、かなり気が利いている。
どんな人なんだろう?

その晩、帰宅するとNHKテレビで政見放送をやっていた。
タイミングよく、外山恒一が出てきた。
度肝を抜く発言の数々。
じつに良く推敲されている。
笑いのツボもおさえている。
ポスターのインパクトを遥かに凌ぐ、凄いアジテーションの芸だった。
選挙の無意味さ、民主主義のナンセンスさを笑い飛ばし、アナキズムを高らかにうたっていた。
広告代理店による思想統制にたったひとりで挑み、見事一矢報いましたな。

見逃した人も大丈夫。よくしたものでYoutubeで見られるようだ。
ニート君たちが次から次へとアップしてくれているのだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=l2C9lv5t0yQ

この政見放送によると、彼は2種類のポスターを貼っているとのこと。
しまった。不覚にも1種類しか読んでいなかった。

彼は本気で政府転覆をめざす戦後最大のアーティストかもしれない。
若かりし赤瀬川源平も真っ青である。
ついにこういう才能が頭角をあらわしたか。
太田光や松崎菊也も少し荷が軽くなるのではないかな。

彼のブログもみつけた。

http://www.warewaredan.com/blog/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E6%81%92%E4%B8%80

彼は大澤真幸を読み込んでいるようだ。
頭がよくて表現力(実行力)もある。
あらゆる意味で、彼は時代の寵児だと思う。
この国の行く末も俄然面白くなってきた。


|| 16:44 | comments (x) | trackback (x) | ||
思考する自然 完全版
by 日詰明男
小噺。

「星は内部で錬金術を行っている。つまり星もまた思考する。」
「おいおい、あんまり星を擬人化するなよ。星はそんなちっぽけなものじゃない。」

*****

というわけで、「思考する自然」の全文を下記からダウンロードできるようにしました。ご一読を。
icc.pdf (24kb)


|| 01:07 | comments (x) | trackback (x) | ||
デザインと科学
by 日詰明男
InterCommunication誌No.60(NTT出版)デザイン/サイエンス特集に「思考する自然」と題して寄稿しました。
図版多数です。
日ごろデザインについて思うところを述べています。
http://www.nttpub.co.jp/ic/ic001.php

実はオリジナル原稿は長文だったのですが、紙面の都合でそれを10%に縮めました。
舌足らずと感じられるかもしれません。

後日全文を何らかの形で公開しようと思っています。


|| 14:36 | comments (x) | trackback (x) | ||
黄金比の音楽
by 日詰明男
過去に作ったコンピューター音楽のサンプルや、打楽器アンサンブルによる演奏の中から主なものを下記サイトにまとめた。

http://f31.aaa.livedoor.jp/~starcage/music/index_j

特に近作の「Golden Bell Tower」に注目してほしい。
これは、リズム、音色、音階において、無理数の自己相似構造を徹底的に反映させたものである。
いわば今まで発表した一連の音楽理論(著書参照)を、ひとつの作品として総合したものでもある。
ここで紹介するのは特に「黄金比の音色による、黄金比の音階の、黄金比のポリ・リズム音楽」である。
音のパターンはどんどん変化し、さまざまな響きや旋律が聞こえてくる。旋律としてのまとまりがつかめそうでつかめず、おもしろい掛け合い(カノン)の効果も生まれている。独特の音階と音色とがあいまって、悩ましい旋律に聞こえるのではないだろうか。この音楽は約69年間で循環する。

サンフランシスコ在住の友人からさっそく以下のような批評をもらった。

Sounds like music from the future!
Music from the planet of the temple where the gods are keeping the mathematics of the universe humming.
Alien-beings are sending us messages.
Atoms are communicating with each other.
                              Robert Hickling


人類にとって未体験の音楽。さながら「音楽の第一種接近遭遇」というところか。

<strong>壁のシミの音楽</strong>
エリック・サティは晩年、自らの音楽を「家具の音楽」と呼んだ。
「Golden Bell Tower」は、さしずめ「壁のシミの音楽」あるいは「壁のヒビの音楽」と言えるかもしれない。

芸術の始まりはどこにあるかと学生の頃考えたことがある。
おそらく人類が横穴式住居に住んでいたころ、寝転んでぼんやり岩壁を眺めていたときに、ふと岩壁の表面にあるシミやヒビが、何か(たぶん動物)の形に見えたのではないか。
そう見えたのは仲間の中でその人だけだったかもしれない。いったん図が見えてしまえば、それにしか見えなくなるものである。
そしてその人は次に、その模様を指でなぞり、「描き起した」のではないか。
ここまでくれば、ラスコーの壁画まで洗練されるのは時間の問題である。

「Golden Bell Tower」は、そうした壁のシミやヒビのように作用するかもしれない。
人それぞれに別々の音を拾い、口ずさむというような。
私自身、この音楽を数日間連続再生し、聴き続けた。
眠るときに子守唄代わりに聴いて寝て、朝、昨日とは全然異なる旋律を辿っている自分に夢の中で驚き、目が覚めた。

聞き手の自由がこの音楽にはある。
これは音楽に限ったことでなく、たとえばそれが建築や庭園ならば、そこで何を読み取るか、そこで何をして遊ぶか、可能な企画は百人百様であるべきだろう。そのような自由度をできるだけ広げるような作品をこれからも生んでいきたいと思う。


ご感想を!


|| 11:56 | comments (x) | trackback (x) | ||
グーグル ハッブル
by 日詰明男
一次情報図書館「Google Hubble」

Google Earthはすばらしい作品である。
このインパクトに比べれば、巷にあふれるどんなメディア・アートも色あせて見えてしまうほどだ。
インタラクティヴな操作性も申し分なく、莫大なデータがエレガントに包括されている。重くなるはずのデータを重く感じさせない工夫が随所に見られる。
汎用性もあり、実用としてのポテンシャルは計り知れない。
私たちはこれを使って、無限の情報を引き出すことができるだろう。
国連のような公的機関がこうしたサービスを提供したというならともかく、Google社という一プライベート・カンパニーが無償提供していることに驚かざるをえない。近年まれに見る気の利いた社会還元だと思う。

勝手な希望を言わせてもらえれば、次はぜひ「Google Hubble」を企画してほしい。
宇宙の全域をくまなくハッブル宇宙望遠鏡によるウルトラ・ディープ・フィールドの解像度で公開して欲しいのである。
Google Earthが完全無欠の地球儀ならば、Google Hubbleは究極の天球儀、あるいはプラネタリウムというところか。
これはヒトゲノム公開以上の重要なデータベースになるはずだ。

周知のように、ハッブル宇宙望遠鏡は1990年に打ち上げられ、多少のトラブルはあったものの、修理後は驚くべき天体映像を続々と撮り続けた。
中でも、1997年に発表された「ディープ・フィールド」と呼ばれる写真は圧巻だった。
http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:HubbleDeepField.800px.jpg

それは、従来最も星の密度が希薄とされていた北天の視野に向けて10日間に及ぶ観測をした映像だった。その観測精度は、月から地球上の蛍の光を観測することに匹敵するという。
視野角にしてわずか2.7分に満たない領域に、ハッブル宇宙望遠鏡の眼は無数にひしめく銀河を捕えた。この1枚の写真に驚愕した人は多いのではないだろうか。

定説となっているビッグバン理論からすれば、宇宙の誕生後それほど経っていない時期(およそ120億年前)にして既に無数の成熟した銀河が存在するわけで、どうして未だに宇宙論の革命的修正がなされないのか、私には不思議でならない。

この解像度の映像を、球面に隙間なく埋め尽くせば、私たちは実質的にハッブル宇宙望遠鏡の目を手に入れたも同然である。
恒星の世界はさほど変化しないから、更新を急ぐ必要もない。
計算すると、この解像度で全天球面を埋め尽くすには二千万枚あまりを必要とする。
仮にさきほどの写真が10センチ四方だとすると、直径130mのプラネタリウム球面が必要である。建設は今日の技術からして不可能ではないとはいえ、ヴァーチャル空間で実現したほうが賢明だろう。

それよりも、現実問題としてデータ収集が最も困難である。
視野角2.7分でさえ10日間も要したのだから、全天を埋め尽くす画像情報を得るまでには、単純計算で観測に2億日(54万年)必要ということになってしまう。
しかし、ハッブル級の宇宙望遠鏡を何本も打ち上げ、フル稼働させればかなり短縮できるはずだ。
これは荒唐無稽な話ではない。なぜなら、およそ30億文字からなるヒトゲノム解析も当初は天文学的時間を要すると思われていたが、その予想を裏切って、計画開始からわずか13年で塩基配列完全決定の宣言が発表された例を私たちは知っているからである。

ハッブル宇宙望遠鏡を飛ばすのに1本3000億円(10年間の維持費込)の経費がかかるという。私は全然高いとは思わない。もし税金に余裕があったとしたらぜひこういうことに使ってもらいたいものだ。

比較のために、コンクリート消費を目的として、全国各地に作られている無駄ダムは、建設に500億円かかるのが普通である。したがってダム6基ぐらいの資金があればハッブル宇宙望遠鏡が1基打ち上げられ、10年間運営できるわけだ。ちなみに今話題の箱物施設「私のしごと館」は総工費581億円である。
日本にはこのような死蔵物が無数にあるのだから、ハッブル宇宙望遠鏡を何台飛ばせたかわかりはしない。

猛禽類が上空を飛んでいる森林は健康な証しだといわれる。なぜなら、猛禽類は食物連鎖の頂点にあり、生態系の裾野の広さを示すものだからである。
アメリカは無意味な戦争にもっぱら国費をつぎ込んでいるので、ハッブル宇宙望遠鏡級の計画にはもはや積極的ではない。イラク戦争に96兆円費やしたというから、320基のハッブル宇宙望遠鏡を運営できた計算だ。
アメリカ上空に飛んでいた高貴な鷲は絶滅し、不毛な藪(ブッシュ)がはびこるばかりである。
ならば、他の余力ある国や企業が、積極的に宇宙望遠鏡打ち上げに出資してはどうか?NASAはアメリカから独立して多国籍研究所に昇格してもいいだろう。
国や企業が何本の宇宙望遠鏡のスポンサーとなっているか、それが経営状態の粋な指標となるだろう。

人は「それが何の役に立つのか?」と問うかもしれない。
Google Hubbleは人類が手にする最高の公共一次情報図書館になるだろう。
天文学者という、いままでごく少数の特権階級しか手にしえなかった第1級の天文データに誰もが自由に、無料でアクセスできるのである。
天文学はそうした無数のアマチュアの頭脳によって飛躍的進歩を遂げるだろう。
宇宙観のみならず、哲学が劇的に変わる。
これ以上の恩恵があるだろうか。


|| 14:27 | comments (x) | trackback (x) | ||
マイ・アーキテクト
by 日詰明男
建築家ルイス・カーンの作品を扱った映画「マイ・アーキテクト」を観た。
ルイス・カーンの息子が、父の作品を訪ねることを通して、亡き父の実像を追い求めていくというドキュメンタリーである。

かれこれ25年前、建築の学生だった頃、ルイス・カーンのバングラデシュ国会議事堂の図面に魅せられたものだ。その大胆なデザインは、近代建築の中で異彩を放っていた。
この映画の中で模型の映像や実物の動画が見られたことが何よりも嬉しい。あとはもう現地に行くしかない。

彼がエルサレムにシナゴーグを設計していたことについては不勉強にも知らなかった。
資金が集まっていながら瑣末な政治的理由で計画は頓挫しているという。
市長は「モスクよりも高い建築を建てると反感を買う」と上等の葉巻をくゆらせながら言い訳をしていた。
市長が建設資金を葉巻代に使い込んでいない事を祈る。

歴史上、すぐれたアイデアが、つまらぬ輩に足を引っ張られ、日の目を見ることなく永遠に埋もれてしまうことがどれだけあったことだろう。
だからなおさらバングラデシュ国会議事堂の存在は貴重である。
イスラム教徒が圧倒的多数を占めるバングラデシュで、着工後、カーン氏の死去や独立革命を経ながらも建設は引き継がれ、25年かけてあの国会議事堂が完成した事実は考えれば考えるほど深遠な意味を持っているように思える。
重機の無い地で、あの記念碑的建築は、文字通り、無数の人々の手で築かれたのだ。
その場所でムスリムが日々礼拝している。
現地の人々が、「カーンの建築は私たちに民主主義をプレゼントしてくれた。あの建築は私たちの宝だ」と涙を浮かべながら語る場面がある。

ユダヤ人が設計した建築をイスラム教徒が愛し、誇りにしているという現実に、私たちは真剣に向き合う必要がある。

建築を介して国境や宗教を越えた人々の結びつき、建築がもたらした心の豊かさの前に、ルイス・カーンの私生活やエゴは後退していく。これを偽善だと言ってしまったら、何人も崇高なことなど出来はしない。

フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルをあっさり解体した日本人はいったいこの映画をどう見るだろう。ああいうものを守らずして何を守るというのか?
専門家は地盤沈下や老朽化を理由に、帝国ホテルが解体されたことを正当化している。
でも世界各地の建築遺産を支える人々の熱意を知る者からしたら、そんなものは言い訳にしか聞こえない。

今この国の人は、誇りとすべきあの平和憲法を再び壊そうとしている。
何が悲しゅうて、自分をそこまで貶めるのだろう。
「美しい日本」などとナルシズムに耽るよりも、まず私たちの愚かさに気づくべきではないか?
自分の愚かさを認識することを「自虐史観」と言って攻撃する人々がいるが、自分の愚かさに気付いていない自尊心など子供じみた「虚栄」にすぎない。

ルイス・カーンの教会が、将来、エルサレムに建設されることを祈る。
それは三宗教の和解の象徴となるだろう。
彼の建築ならそれができるかもしれないと思った。
どんな政治家も、宗教家もなしえないことを、建築はなし得るのである。


|| 19:31 | comments (x) | trackback (x) | ||


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