2008-03-11 Tue [ 政治経済 ]
by 日詰明男
前回、カテゴリー3の労働について書いて思い出したことがある。まだ学校に上がる前のこと、山国で生まれた私にとって、年に一度海水浴で目にする「海の水平線」は不可解きわまりないものだった。
海の果てを一度でいいから確かめてみたいとずっと思っていた。
そして家族旅行で海へ行った折、私たちは遊覧船に乗り、ついにそのチャンスが訪れたのである。
船窓から水平線をずっと見つめていると、希望的観測も手伝って、水平線がだんだん近づいてくるように感じたものだ。
やがて岸が前方に現れ、港に着いた。
船を下りたとき、「なんだ、海の果ては意外に近いな」と思った。
後日、保育園の友達に「僕は海の果てに行ってきた」と自慢したのは言うまでもない。
山登りを趣味とする伯母が家に遊びにきたときのこと、伯母は富士山に登った話をしてくれた。
頂上は空気が薄いということ、そして大勢の人が登るから大変な混雑であることを聞いたとき、僕は「それは大変だ。空気がなくなってしまうではないか」と言った。
伯母は「自然はそんなに小さくないから大丈夫」と言って笑った。
こうした子供じみた発想は今となっては笑い話である。
ところが大人になっても笑うに笑えない似たような話がある。
先日、太平洋に面した海岸を訪れた時のことである。
その海岸では、おびただしい数の鉄製型で、数えきれないほどの巨大コンクリート製ブロックを大量コピー生産し、片っ端から海に沈めていた。
聞けば太平洋の荒波からの侵食を食い止めるために、毎年こうした護岸工事をしているのだという。
見回すと岸辺に人家があるわけでもなく、別段さしせまった状況ではない。
国土地理院発行の地図を書き換えたくないという国家の執念だろうか?
”自然”万事塞翁が馬。
たとえここの海岸が侵食されても、別の海岸には砂丘が築かれるであろう。
自然は大抵帳尻が合うようになっている。
大海の摂理に人間が立ち向かうなど無謀行為も甚だしい。
この公共土木工事で、膨大な資材、膨大な重機、膨大な燃料、膨大な人手が海の藻屑へと消えてゆく。
先ほどの富士山の話を借りると、頂上に空気を供給すべく窒素と酸素を適度に配合した空気ボンベをせっせと運び上げ、頂上で空にしては麓に持ち帰るという行政サービスをしているようなものである。
地元の人の話では、最高純度のコンクリート・ブロックを維持するため、抜き取り検査を怠らない念の入れようだとのこと。
こういう工事に限って、手抜きはないのである。
このような無意味な労働によって、関係者は経済的に潤っているのだろう。
こうしたことに税金が使われていることに国民は怒ってしかるべきである。
だが批判の矛先を当事者に向ければ済むほど浅い問題ではない。
被告もまた、税金にたかることを余儀なくされている不憫な人々である。
仕事の内容は精神的な拷問以外の何物でもないのだから。
以前、ソビエト連邦では政治犯に対して、毎日朝から晩まで、お椀に入れた砂を棒でつつく作業を強制したという。
どんなに強い精神の持ち主も、無意味な行為を延々とさせられると、いずれ発狂してしまうのだそうだ。
身体を傷つけず、十分な食料も与えながら、ジュネーブ条約に違反することなく、確実にじわじわと精神だけを壊す方法である。
どんなに経済的な見返りがあったとしても、「無意味な行為」に対して人の心は強くできてはいない。
志を失った製造業、土建業の人々の心は想像以上に病んでいるはずである。
つまるところ、この護岸工事で誰も幸福になっていない。
生態系ももちろん壊している。
宇宙的ナンセンスとはこのことである。
この種の労働が昨今あまりにも多いのではないだろうか。
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