LOGIN
USER ID:
PASS:
Mode: ゲストモード
PROFILE
NEW ENTRIES
CATEGORIES
COMMENTS
SEARCH BOX

究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」
by 日詰明男
NHK総合テレビ。マイケル・サンデル 究極の選択「お金で買えるもの 買えないもの」を見た。

人間の浅はかな社会システム、その不完全性をつく問いばかりだった。
ぜひNHKオンデマンドで何度も見直してほしい。
日本、アメリカ、中国の順で愚かさがデータに出ていたと思う。
日本人として恥ずかしい。
しかしその日本、アメリカのパネリストの中で、数名の少数意見が光っていた。
こんな東大の若者がいることは希望である。

マイケル・サンデル自身はおそらくその解決策を知っている。
しかしそれを決して明かさない。
なぜなら、それを私たち自身に考えさせるためだ。

シュタイナーの社会学。
ベーシック・インカムの哲学の中にその回答は見出せるはずだ。

|| 22:23 | comments (x) | trackback (x) | ||
アイルランドに学ぼう
by 日詰明男
大きく民族性は3種類に分類できるようだ。

一つ目は、痛い目にあってようやく間違いに気付き、軌道修正する民族。
犬でさえ、一度ひどい目にあった道は断じて通ろうとはしないものである。
人もまた期せずして災難に会った時、「高い授業料だった」と自らを励まし、失敗から学ぼうとする。
しかし今回の原発事故は「授業料」で済む規模ではない。

二つ目は、痛い目にあっても何も気付かない民族。
広島、長崎、第五福竜丸、東海村、そして極めつけの福島まで経験してもなお、AKB48などに浮かれている民族はこれに属する。

三つ目は、痛い目にあう前に思考力によって危険を予測し、軌道修正できる民族。
本来これが霊長類たる所以のはずだが。
しかし原発に限れば、これを体現している国家は少数派である。
たとえばアイルランドがそうである。

原発無用!日本はアイルランドを見習え
村田光平2005/11/10
http://janjan.voicejapan.org/world/0511/0511094933/1.php

私の知る限りでは、コスタリカやニュージーランドもアプリオリな反原発国家である。
豊かな自然に囲まれ、日々恩恵を得ていることを多くの国民が実感しながら生活を送っているからだろう。
極端に言えば、これは南方熊楠のようなパーソナリティで構成された国家のようなものだ。

日本の悲劇を他山の石として反原発に舵を切ったドイツ、イタリアも第三のカテゴリーに含めて良いだろう。
すべての核保有国はこれを見習ってほしい。

アイルランドには二度ほど滞在したことがある。
若かりしころ、ダブリンのグラフトン通りで大道芸をして宿代を稼いだこともあった。
アイルランドの印象を一言で言えば「唯足るを知る」国民性である。
人々は音楽とビール、おしゃべりを何よりも愛する。
ゆえにそのささやかな幸福を破壊しかねないものを憎む。
無印きわまるシンプルライフを大昔から頑固に続けている。

明るいうちからビールを飲み、当時珍しい東洋人が歩いていれば呼びかけてビールをすすめる。
パブでは常にライブの音楽が流れ、歌い踊る。
演奏者はプロと言うわけではないが、普通のプロよりうまい。
なのにギャラはビールで満足。
お金では計れない楽しさを皆が共有している。

最近私はダブリン発のインターネットラジオをずっと聴きながらすごしている。
http://my.liveireland.com/
まったく飽きない。
ハズレがない。
背景にある音楽経験の裾野の広さ、成熟度ゆえだろう。
残るべくして残る頑固なまでの伝統。
しかし新しい楽器や他国の民族音楽、リズムも巧妙に取り入れ、ゆっくりと日々進化している。
頑固で瀟洒で素朴で磨きのかかったアイルランドの町並みそのものだ。
どんな片田舎の町並みも一見似通っているが、どこも体臭にも似た、多様で個性的な彩りに満ちている。
津軽の音楽などもアイリッシュで起こっているような先カンブリア爆発があって不思議は無かったかと思う。

このラジオで知ったアーティスト。
昨年Janet Devlinという16才のアイルランド田舎娘が歌手として劇的にブレークしたようだ。
いい声である。
パーソナリティの話では、「Very very Irish voice!」とのこと。
的確な音程のはずし方も興味深い。
トム・ジョーンズの「Your Song」でイギリスの人々の心を打ったYouTube映像が以下で見られる。
http://www.youtube.com/watch?v=GaDFdtk0A2Y&feature=related


|| 04:23 | comments (x) | trackback (x) | ||
ベン・シャーン再び
by 日詰明男
ほぼ半年振りに東京に行った。

予想に反して東京は異常な賑わいだった。
福島原発の事故などどこ吹く風である。

深刻な現実など考えたくもないという、ほとんどやけくその心理なのかもしれない。
これも生物学的な本能なのであろうか。
みな秋元康プロデュースのAKB48に夢中。
彼はそれを芸術だと嘯く。
これが「芸術だ」と言うなら、ローマ帝国末期、あるいはナチスの開発した手法、すなわち現実から目をそらせ、大衆を洗脳する広告代理店的手法は第一級の芸術ということになろう。

そんな東京を早々に脱し、私は葉山の神奈川県立美術館に立ち寄り、ベン・シャーン展を観た。
彼のまとまった展覧会を観るのは30年ぶりである。
7歳から11年間書道に親しんだ私としては、篆書に通ずる彼の描く線がたまらなく好きだ。
有名な作品群に加え、紙切れに描かれたスケッチや写真を沢山見ることができた。
氏は1960年に来日し、当時近代化へとひた走っていたとはいえ、彼の目に映る日本の町並みはさぞや驚きに満ちたものだったのだろう。
滞在中、ベン・シャーンは写真を撮りまくっていたようだ。

彼の全作品には墓碑銘に似た死へのまなざしを強烈に感じる。
周知のとおり、彼は多くの冤罪事件、第五福竜丸事件など、風化させてはいけない社会問題を作品に封じ込め、永遠にプロテストすべく刻印した。
他の媒体ではどうしても限界がある。
新聞記事に何が書かれようとも、瞬間的にどんな噂が広まろうとも、民衆をして忘却せしめる術を心得ている行政当局にとっては「屁でもない」からである。
いわゆる「柔らかいファシズム」に抗うために、芸術の力は必須であることをベン・シャーンの作品は実証している。

福島もそのように昇華させなければならない。
永遠の負の記念碑として。

原発事故以後、ほぼ一年の経過をみるに、福島、否、日本全土は世界の犠牲に供せられる運命に向かっているように思えてならない。
何千年もかけて培い、無数の人々の手で磨きをかけられ、世界中の羨望の的となっていたほどの風土が、たかだか数十年の愚行によっていともあっさり葬り去られる。
世界を救うために、この国は世界一美しい風景と共に滅びるべきなのかもしれない。

この展覧会は最終的に福島へ巡回するそうだ。

展覧会の後、のんきに江ノ電に乗って静岡へ向かった。
江ノ電に乗るのは初体験。
噂にたがわぬかわいらしい路線である。
藤沢からJRに乗り換え、急ぐ旅でもないので鈍行を使い、いつのまにかウトウト。
目覚めれば目の前に巨大な富士山が車窓一杯に見えた。
西日を浴び、冠雪が紫に染まっていた。
「今日の富士山はすすり泣いているねえ。」(←岡本太郎のパクリ)
赤富士ならぬ紫富士。
黒澤の夢を思い出さずにはいられない。
そういえば先日、それとそっくりの夢を見たっけ。
富士の溶岩が降り注ぐ大地で地震が何度も何度も起きた。

富士駅に停車すると、おりしもちょうど5時なのか、町営スピーカーから小学校で何度も歌わされたあの童謡「富士の山」のメロディが聞こえた。
紫富士を見ながらその旋律を耳でたどっているうちに、はたと、後半の旋律は富士山のシルエットをそのまま写したものであることに気付いた。
これは一般に知られていることなのだろうか?

家に帰ってから、さっそくその作曲者は何者かと調べると、なんと作者不詳なのだそうだ。
詠み人知らず、おそるべし。



|| 15:16 | comments (x) | trackback (x) | ||


CALENDAR
S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29    
<<  2012 - 02  >>
ARCHIVES
OTHERS
    処理時間 0.022025秒
RECOMMEND ITEM

POWERED BY
POWERED BY
ぶろぐん
DESIGN BY
ゲットネット