企画の要約
*実験都市計画
人は今まで四角い世界にばかり住んできました。しかしよく考えれば五角形の都市や建築の方が地震などの災害に強く、迂回路も豊富です。住むにも刺激的で風通しの良い街になるにちがいありません。
その雛形を作るべく、私は1995年に世界都市博覧会のための野外彫刻公園をデザインしました。
残念ながらこの博覧会は実現しませんでしたが、将来「落書き迷路公園美術館」として実現させたいと思います。
子供たちはこの公園の中で、嬉々として新しい遊びを発明することでしょう。
この迷路では一本道や番地をつけることはあまり意味がありません。私たちは何かを思い出すとき、コンピューターのように番地で呼び出したりはしませんよね。
この迷路の中での人の動きは、ちょうど私たちが頭の中で何かを思い出したり、考えたりする行為に似通ってくるでしょう。それが「ニューロ・アーキテクチャー」の名前の由来です。
5角形の1辺は2m
*竹を使う理由
この実験を最小限の予算と素材で実現する方法を考えました。
材料は、アジア全域に豊富に生育する竹をそのまま使います。枝が付いたままでも良いでしょう。
日本では竹が繁殖し、最近も「竹が暴れる」といった題名で新聞記事になるほど敬遠されています。
ところが欧米ではどうかというと、竹は希少価値ということもあるでしょうが、森林を破壊しないほぼ無尽蔵の資源と見込まれており、積極的に栽培され始めています。竹林は雑木林と異なって、適度に伐採した方が竹林自体のために良いからです。実際に私はアメリカで、大変な手間をかけて竹が育てられ、それらが高額で取り引きされている様子をこの目で見てきました。竹が豊富な日本では考えられないことです。
この企画は、竹が不当に軽視されている日本でこそやるべきだし、また竹があるからこそ低予算で実現できるプロジェクトです。竹という資源を見直す良いきっかけになるのではないでしょうか。
また、竹の地下茎(リゾーム)が織りなすネットワークは、周知のように非常に柔軟かつ複雑なシステムで、壊滅させることはほとんど不可能です。
それに対して普通の樹木はどんなに立派なものでも、ただ根本を切ってしまえば全体はあっけなく死んでしまいます。
大地震が起きるとビルディングや巨木は倒壊してしまいますね。しかし竹林は平気です。むしろ竹林に逃げろと言い伝えられているほどです。
竹の生態は、重厚長大型の文化、中央集権、ピラミッド型階層構造など、あらゆる西洋近代思想に異議申し立てをしているように見えます。近代の矛盾を乗り越えるためにも、竹の智慧に学ぶところは非常に多いのです。
そして実のところ、この竹林ネットワークの形式と、ニューロ・アーキテクチャーの幾何学は非常に深いところで共鳴します。どちらの網目も中心はどこにもありません。あるいは中心は至る所に遍在しているといえます。
まず60m以上のロープを使って、敷地いっぱいに、全身を物差しにして作図をします。
これはあたかも古代エジプト人がピラミッドを建設する時の測量を彷彿とさせるでしょう。
作図に1週間かかるかも知れません。
この作業は映像記録として残す予定です。
全行程を最終的に5分間ほどの映像に縮めてみると面白いでしょう。
*ティピの建築
地面に作図し終えたら、5角形の区画上に竹の構造物を設置して行きます。
今回は、ネイティヴ・アメリカンの発明「ティピ」を5本の竹で作ることにしました。図のように、上部を束ねるだけのきわめて簡単な構造です。
五角形平面の建築は四角形のものより座りがいいので、安定性は十分です。竹を差す穴は、深く彫る必要はなく、横滑りを防ぐ程度(10センチ)で良いでしょう。
念のため補強として、上部の束ねた部分からロープを地面に垂らし、スクリュー式のアンカーに固定します。
今回描いたパイロットプランでは、約100基のティピが設置される予定です。
この作業は出来るだけ多くの人に手伝ってほしいと思います。後で述べますように、もし第3期工事以降、このティピを一般開放することになりましたら、それを使用するかた本人が組み立てられるのが理想的です。
●音楽ワークショップ
それぞれのティピにテナント(?)が入る前にやってみたい音楽ワークショップがあります。
フィボナッチ・ケチャックを大勢で合奏するというものです。参加者がそれぞれ好きなティピの中に入ってもらい、自分の選んだリズムパートを演奏してもらうのです。
一つ一つのリズムは単純な繰り返しでも、全体は複雑な変化を見せます。音源は当然竹でしょうね。
ちょうど蛙の合唱のようなパターンが生まれれば面白いと思います。
ティピの建設と並行して、合奏の練習をすれば一石二鳥でしょう。本番演奏は満月の夜に限ります。
「蛙の合唱」と言うより、「狸囃子」でしょうか。
この迷路のパターンを活用するパフォーマンスとして、大道芸的なものこそふさわしいでしょう。パフォーマーも移動し、観客も気ままに移動する関係です。立ち止まるか通り過ぎるかは双方自由な世界。意外な方向から出現しては消えて行くストリート・パフォーマー。
退屈な演奏をお尻が痛いのを我慢してまで聴くことはここでは無用となります。旅芸人の気質を持った演奏家たちに飛び入り参加してもらいたいものです。
さて、この迷宮構造は、その後少なくとも国民文化祭終了(11月11日)までの数ヶ月間展示されるわけですが、ティピを空っぽな構造体にしておくのはもったいない話です。五角形の区画を素通り出来てしまっては迷路の魅力が半減し、この都市構造のおもしろさをほんの少ししか味わえないでしょう。
訪れた人々が五角形の区画で立ち止まるような、何らかの機能を与えたいものです。
ティピの有効活用として、そこを花壇にしたり、風で音の鳴るオブジェを置くなどいろいろな構想が浮かびますが、私はアーツアンドクラフツの展示施設として活用するのがもっとも有効かつ刺激的だと思います。
反響の大きさによってはそれが実現する可能性があります。興味を持って下さったかたは下記までお問い合わせ下さい。なにぶん行政上の制約もあることですから、どこまで実現するかは分かりませんが、できるだけ市民が参加できるものにしたいと考えています。詳細が決定し次第、このホームページで逐次お知らせします。問い合わせをいただいた方には直接お知らせいたします。
なお念のため申し添えますが、これはまだ正式な募集ではありません。
*ティピの機能
主にアーツ アンド クラフツ 作品展示施設として一般開放する
それぞれのティピを、有志アーティストたちの展示・インスタレーション空間として開放してはいかがでしょう。
さらに、子供たちにも基地を作るなど、自由に使わせては。
より面白い試みとしては、この迷路全体を、一種のフリーマーケットとして活用すると、さらに生き生きとしてくるはずです。世界のどこかにありそうでどこにもない、魅力的な市場が現出する事でしょう。
5本の竹で区画された境界線からはみ出さないというルールだけ守ってもらえば、屋根を葺いたり床をこしらえたり壁を作るなど、各自の責任のもとで自由にやってもらうのです。四角い家より創造力も働き、多様な表現が自然発生することを期待します。
素材は使用者の自由で、持ち込みとします。敷地の片隅に木材や煉瓦などのジャンクをふんだんに集めておき、参加者が自由に使えるようにすれば、アイデアも現場でいろいろ生まれ、各戸のデザインも日毎に変化することでしょう。
このティピの活用希望者を早い時期に、群馬だけでなく首都圏全域に募集をかけてみてはいかがでしょうか。図面を公開し、企画書を公募するなどして。
私自身も一基使いたいと思います。
*ジャンク
竹を切りそろえる工程でも、おびただしい量の端材がどうしても出てくると思います。それらを一カ所にまとめ、だれでも自由に使用していいものとすれば、飾り付けにしたり、ティピの改造に使ったり、楽器を作ったりする人が必ず現れるでしょう。それらでケチャック合奏するのもおもしろいワークショップです。
ティピの解体は使用者が責任を持って行うこととします。
持ち込んだものは必ず持ち帰ってもらいます。
残った竹は、希望者が持ち帰るとしてもいいし、適当な場所に保存してもらえれば、私がまたそれらを使って巨大な星籠を作ることもあるかと思います。
あるいは、敷地の区画をマークしておき、竹も雨ざらしにならないように保管しておけば、ふたたびティピを林立させることは容易です。
今回限りでなく、定期的に市を立ててはいかがでしょう。
竹炭を作るというのも悪くないアイデアです。
現在生育している草や竹を切って燃やしても、二酸化炭素の問題は起こりません。
なぜなら、草や竹はつい先ほどまで空気中に存在した二酸化炭素を身体に固定したばかりだからです。
それを燃やし、ふたたび二酸化炭素を開放すことはプラスマイナスゼロに戻す事になります。
竹をそのまま放置して、朽ち果てたことと結果は同じです。どうせ朽ち果てておなじことなら、竹を何かに活用した方が賢明です。
二酸化炭素が問題となるのは、本来は永久に地下に葬られる予定だった化石燃料を燃やす場合と、今後数千年、酸素を供給するはずであった森林を伐採する場合です。これは確実に生態系を壊します。
竹の伐採と燃焼はまったく問題ありません。
なお、友人の永島明氏から以下のような提案をメールでいただきましたので引用いたします。
> 残った竹の処分について提案があります。竹の節を抜いてパイプ状にしてから
>窯で竹炭に焼くのです。長さも30〜40cmに切りそろえると節を抜く作業も
>楽になると思います。館林は富栄養化した湖沼を抱え水質問題で悩んでいるので、
>この竹炭を使おうという提案ですね。
> パイプ状の竹炭を水路の底面から浮かせ、約60度に傾斜させて並べます。水処
>理施設でよく見かける傾斜板沈殿池の応用です。今まで闇雲に炭を水路に投入し
>てきましたが、たまねぎ袋に入れた炭はすぐに閉塞しその機能を失ってしまいま
>す。空隙率が低すぎたのです。
> 上のような合理的な配置をすることによってSS(浮遊物質)を効率よく捕捉し、
>閉塞するまでの時間を延ばすことが期待できます。閉塞しなければ生物処理も進
>みかなりの効果が期待できます。この実験は前橋の鶴谷沼で行ないたいと考えて
>いました。炭焼き窯をどうするか、という問題が残りますが、館林には受け入れ
>られやすい提案だと思います。(永島明 2月28日))
以上の活動を「これは彫刻か?」と問われる方がきっと現れる事でしょう。
こうした質問に対しては「もちろん前衛的な彫刻以外のなにものでもありません」と答えることにしましょう。
ヨーゼフ・ボイスは「すべての人間は芸術家である」と言って「社会彫刻」という概念を広めました。現代の経済状況同様、重苦しい閉塞感に喘ぐ現代美術は、このようなスタンスによってのみ、活性を保ち続けることでしょう。
以上、このひとつの実験の中に、さまざまな問題提起が有機的に織り込まれているのをご理解いただけたことと思います。
一見対立し、ばらばらにみえる種々の利害関係も、一つの建築行為が止揚してしまう場合があります。これが建築の力であり魅力です。
この来るべき都市のインフラストラクチャーをわずか数ヶ月で取り壊すのは、正直言って惜しいと思います。竹はもちろん恒久的な素材ではありませんが、この敷地に刻印された迷宮としての区画配置は百年あっても味わい尽くせないポテンシャルを持っています。
もし可能ならば、この区画を残し、より恒久的な素材で迷路を作り直し、立体的な公園へと発展させることが出来ればと作者は切望します。
それをするには、かなり大規模な工事になるでしょうし、現時点で判断する事ではないでしょう。まずは仮設の段階でみなさんに評価していただくことにしましょう。
でも、仮に恒久公園に発展した場合を想定して、後々のビジョンまで語っておくことも無駄ではないように思います。
概して建築家とは、実際に建築しなくとも、設計図の中で生活することができます。
私は15年前にneuro-architectureの図案を作成し、今までずっとこの構造に親しみ、実質的に生活してきました。この迷路で遊ぶことは、本当に飽きません。飽きるどころかこの構造の豊かさがますます明らかになるばかりです。
今回の敷地でたとえ存続が無理だったとしても、他の場所に作り直すこともやぶさかではありません。
私の同種の作品として「民主主義的階段」が参考になるかもしれません。ホームページにその説明がありますからよろしかったら覗いて下さい。この階段も設計段階から私は効果を確信していました。これは構想を発表してから十年ほどたって、ようやく完璧なものがアメリカで実現しました。完成してみると、果たして予想通りの効果を身体で確認できました。
民主主義的階段は1次元の幾何学に基づいて設計されています。ニューロ・アーキテクチャーは、それを2次元空間に拡張したものに他ならず、コンセプトはまったく同じです。
すなわち、このデザインが実現するのは時間の問題であり、数学的必然と考えます。今は図面として私の頭の中でしか存在せず、地上のどこにも実現していません。
煉瓦などの壁や階段も設置して、立体的に探索できるような正真正銘の迷路に仕上げてみたいですね。
みなさんは、子供の時に、建築中の建物にこっそり入って遊んだことはありませんか?その時味わった高揚感を多くの人が覚えているはずです。建物が完成してしまうと意外に面白くなくなってしまうのですが。それはおそらく完成した建築では、空間の機能が凡庸なものに限定されてしまうからです。建築中の建物では、まだ機能が確定しない空間の浮遊感を楽しむことが出来ます。
同様の高揚感は、廃墟や遺跡でも体験できます。
ニューロ・アーキテクチャーはそのような高揚感を恒久的に与え続ける事でしょう。
その迷路の壁に、だれもが自由に壁画を描いたり、浮き彫りを彫ったりできるようにすれば、放っておいても、ますます磨きがかかることでしょう。壁画は迷路の場所性に特徴を与えてくれるでしょう。傑作の壁画は塗りつぶされることなく残され続けることでしょう。100年もたてば迷路全体がすばらしい美術館に熟成することでしょう。そのころは一部風化も進んで、自然発生の集落のような魅力をたたえているに違いありません。
2001年5月7日
日詰明男