1996年に開催が予定されていた「世界都市博」において、私は屋外彫刻を展示する公園の全体計画に携わり、図のような展示会場を構想し、提案した。
これはペンローズタイルの準周期性を徹底的に活用したデザインとなっている。阪神大震災の後、脳天気なお祭り騒ぎをするよりも、未来都市の雛形としてこのような実験をした方が地味ではあれ有意義だと考えたからである。
基本的なアイデア自体は、先行する設計案「GOETHEANUM 3(1990)」において既に盛り込んでいる。このneuro-architecture案はそのささやかな変奏である。
この空間形式は、防災都市としての意義だけでなく、展示施設としてもユニークなものになっている。従来の展覧会では大抵一本道の順路が決められていて、誰もが生真面目に最初から順番に見ようとするから、いたるところで渋滞が生じ、ゆっくりと作品と対峙することができない。ところがこのneuro-architecture案は、そのような順路を設定すること自体が不可能な配置となっている。人々は森林を散策するがごとく、思い思いの仕方で作品にアクセスすればよい。
このような展示施設では、キュレーターも時系列にしたがった作品の配置には飽き足らず、もっと気の利いた作品群の関係を発見し、新しい展覧会をデザインできることだろう。
付属するレストランも同様の形式で徹頭徹尾設計されている。必然的に中央集権的な厨房は存在せず、点在する独立採算制の屋台群がそれに替わる。テーブルなどはもちろん共用である。この光景は非西洋諸国の都市によく見られる「魅力的な猥雑さ」を彷佛とさせるにちがいない。
一般にこのような準周期的な都市・建築空間では、最初のうちこそ人々は戸惑うだろうが、次第に勝手が分かるようになり、すみやかに目的の場所へ行けるようになるだろう。長期利用者であればあるほど使い勝手の良いものになる。任意の2地点間をほぼ直線距離で移動できるばかりでなく、迂回路も豊富にあり、インフラ整備の自由度も飛躍的に増大する。入れ子状になった深い懐が都市に形成され、陰影に富む飽きのこない町並みが成長することだろう。街区の不活性なブロック化も起こりえず、あらゆる意味で風通しの良い街になるだろう。
人間にとって、碁盤の目状の都市よりも、こちらの方が感性に馴染むはずだ。なぜなら、私たちの脳もまた番地(x,y)を使って記憶を呼び出しているわけではなく、類似や類推などの力を主に使って‘想起’しているのだから。したがって、この都市構造に生活する人々の動線は、私たちが記憶を想起し、思考する形式と似たものになるだろう。
つまりこの都市は、脳のメタファーでもある。
これが「neuro−architecture」という名前の由来である。
(初出 HYPER SPACE, Vol.4, No.2, 高次元科学会, 1995.)