ウルム
ULM

1998年11月16日

この街にはいろいろな建築の顔がある。
街の中心に位置するのは、何百年もの歳月をかけて作られ、そして今後千年は存在し続けるであろうゴシック聖堂。
4マルク払えば、聖堂壁面を縫うように通された階段通路を巡り歩くことが出来、高さ150メートルの尖塔頂部まで登れる。途中に空中楼閣があったり、見晴台や分かれ道があったり、随所に工夫が凝らされている。階段細部の造作も手が込んでいて、決して単調ではない。これはかなりエキサイティングな建築物である。
高所恐怖症の人は登らない方が良いかもしれない。

幾何学を駆使した建築のアーティキュレーションは、人を高揚させ、飽きさせることがない。ちょうど日本人ならば、休日に、かつて修験者が建設した岩山に出かけようとするように、ヨーロッパ人はこのゴシック建築の身体内部を山岳に見立てて探索して楽しむのではないか。
私は以前、荒川修作の養老の公園を批判して、「この類の建築装置を人工的に作ろうとするならば幾何学は不可欠である。(なのに荒川は幾何学を用いない)」と書いたことがあるが、ますますその思いを強くした。


聖堂のすぐ足元には、唐突なほど真新しい純白の現代建築があった。こんな場所に建てるなんてかなり勇気ある建築家がいるものだとまず思ったが、やはり第一線の建築家リチャード・マイヤーによる設計だった。
私は建築の学生だった頃、彼の「アセニウム」という作品にかなりの衝撃を受けた。それは他に何もない丘の上にのびのびと建つ瀟洒な作品だったが、さすがの彼の作品もこの環境では、小さな小さなドンキホーテといった佇まいである。
実際に彼の作品に入るのはこれが初めて。一階がツーリストインフォメーションとなっており、そのほかの階はドクメンタばりの作品が展示されるギャラリーだった。空間構成は気が利いていて、やはり秀逸である。

屋根は全面トップライトで、この建築のどの場所にいても、聖堂の全貌を見上げられるように演出されている。開口部いっぱいに見える聖堂は、巨大な石の怪物という印象で、恐ろしいまでに大きく感じた。その設計意図は確かに功を奏している。
しかしその設計意図自体に問題はないだろうか。建築家としてここまであけっぴろげに他の建築を借景するとは、複雑な気分である。建築を見るための建築・・・。一建築家のプライドも、聖堂の前では砕け散る他はないと言うべきか。
このような理由から、マイヤーのこの作品がどれほど優れていようと、巨視的に見れば、これはここに無くても良い建築に思う。おそらくこの建築は100年と持たないのではないだろうか。所詮鉄とコンクリートで作られた仮設建築である。

それにくらべて聖堂を取りまく旧市街の町並みは、凡庸ながらも、現役の活力をあふれんばかりにたたえている。これも聖堂とともに数百年は足並みを揃え、磨き上げられて行くにちがいない。

もう一つの顔は、日ごと様子を一変する猥雑な屋台群である。蜂蜜、パン、チーズ、ソーセージ、グリュ・ワインなど私はさまざまな味覚を試した。

これらの時代や規模の異なる建築の雑居はこの町を魅力あるものにしている。
すべては聖堂の包容力がなせるわざに思えてくる。

聖堂建設などというものは、人間の肉体の生存という観点からすれば最大級の無駄に属する。いまでこそ観光資源として人々に糧を与えるまでになっているが、建設中の数百年間を思えば、ヨーロッパ人がどれほどパンのみのために生きてこなかったかを、この壮大な無駄が証明している。

この無駄に比べれば、日ごと移り変わるやくざな商売、あるいは近代建築の高々数十年のスタンドプレイなど小さい小さい。なくてもいいが、あってもいい。大目に見ようという気になる。


11月18日

朝は快晴。今日はチューリッヒへ向かう。

聖堂では平日朝11時から12時までオルガンが演奏されるという噂を聞いたので、ホテルをチェックアウトし、荷物を一時預かってもらうことにして、出発までの数時間をまた聖堂ですごすことにした。
今夜聖堂の広場でお祭りがあるらしく、屋台作りに忙しくしている人々でごった返していた。この様子だと夜にはちょっとした遊園地ができあがるだろう。できればもう一日泊まってみたかった。
昨日はこの広場で全然別の市が立っていたものだが。

11時の鐘と同時に演奏が始まった。
来訪者は殆どいない。きっとだれもいなくても演奏するだろう。オルガンの低音に床が共鳴し、震動が足に伝わってくる。
チューリッヒへの列車の発車時刻が近づいてきたが、私は一本遅らせることにしてそのまま聴き続けることにした。
教会内を歩きながら、場所を変え、さまざまな響きを楽しんだ。曲はすでに数十曲を数えた。曲を聴きながら、列柱の聖人像を仰ぎ、柱の影に血で描かれたように見える拷問風景の壁画や、骸骨の彫刻なども見た。
いよいよ正午にさしかかると、ひときわ荘厳な響きの曲が始まった。
クライマックスでは聖堂全体が振動に満たされ、終結和音の余韻が長くうなりを響かせながら減衰し、背景へと消えていく。それにかわって、先ほどから既に激しく打ち続けられていたのだろう、正午を告げる尖塔の鐘の音が石の壁の向こうから徐々に浮かび上がってきた。
私は席を立ち、鐘の音を直に聴くべく、まっすぐにエントランスへ向かった。重いドアを開けて出ると、外はいつの間にか雪が激しく舞っていた。まるでこの鐘の音が蒔き散らした白い音の破片であるかのように。

しかし、この風景もここに住む人々にとっては、とるに足らぬ日常なのだろう、広場では皆あいかわらず黙々と働き続けていた。

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