論文
operation x


engagement発行による資金で実現する企画限定時限投企
1998年10月24日
1999年8月27日改訂
日詰明男

はじめに
トライ・レンマ Trilemma


●現代企業の問題

現代日本では会社・企業を設立する際にも多大な資本を準備しなければならず、決して容易なことではない。
仮に設立したところで、程なく事業内容は二の次となり、単に会社組織の永続を至上目標とした「やめるにやめられない組織」に堕してしまうことが多い。「会社」とはそもそも業(わざ)をなすために集まった組織であったはずなのに、こうなっては「保身組織」というべきである。
また、経営の多角化と称して常に複数の企画が進行する企業内部では、とかく決算が曖昧にされがちであり、株主を欺く粉飾行為が表沙汰となるのはいつも倒産後である。
私たちは同じような例を別のところで知っている。たとえばそれは「国家」である。
あのロシア革命を経て、最も前衛的な社会形式の実践として始まった旧ソ連でさえ、程なくしてスターリニズムが台頭し自己変革の力を完全に失ってしまった。そして閉塞し硬直した「国家レベルの保身組織」というべき状況が長く続くことになった。人間の自由を求めて始められたはずの実践が、人間の自由を著しく束縛する体制へいとも易々と変貌したのである。規模こそ違え企業のたどる運命と何と似通っていることだろう。周知のように、永続をめざしたその密室国家は100年と持ちこたえず崩壊したのであった。
国家は巨大な企業であり、企業は小さな官僚国家である。それらはいずれ違わず、永遠の生命を貪欲に追求する密室組織であり、現代社会が生みだした怪物機械である。この怪物の目には、人間個人の自由や尊厳など雑音でしかない。
さらにこの超人間組織は、一旦成立してしまうと、永遠の生命を追求するあまり、地球上の限りある自然資源を食い尽くしてもなお活動しようとする。
私は、この種の「無限」を追求する組織に投資することを非常に危険と考える。ねずみ講がその最も露骨な例だが、投機を前提とする現行の資本主義体制もそれほど異なるわけではない。
この「無限」は現代人特有の幼稚な幻想にすぎないのだが、現代社会は現にこの幻想を暗黙の前提に成立しているという事実は幻想ではない。違法であるねずみ講が実証しているように、その種の無限を前提にしたあらゆるシステムは必然的に破局する運命にある。

●現代投資家の問題

一方日本の資本家や金融機関は極端にリスクを嫌い、担保を確保した上でなければ資本を投入しようとしない。
さらに問題なのは、彼らは投資した資本が何に使われようと無関心で、ただ元本が増えれば満足する。
この視野の偏狭さも社会モラルの倒錯に拍車をかけている。
会社や金融・保険業はそれをいいことに、出資してもらった資金の使い道を、事実上ブラックボックスにしている。
もしあなたが預金している銀行の投資によって、あなたが日頃愛していた森林が開発され、ゴルフ場になってしまったとしたら、あなたはその銀行に預金したことを後悔しないだろうか。あるいは、あなたの預金が、土地ころがしの資金に使われたことによって、あなたが生まれ育った家の地価が高騰し、莫大な固定資産税を払わねばならなくなったとしたら? あなたはそれを支払えず、引っ越さざるをえなくなる。百年以上もの間、数世代の人々の生活を支え続けた木造の家は、庭の樹齢数百年のケヤキもろともさら地にされ、半年後には大手プレハブ会社製のアパートが建蔽率いっぱいに建つのである。あなたはそれをやむを得ないと思うか?
あなたの払った税金は、政治家と土建屋の思惑のまま上流のダム建設に使われ、川の生態系が破壊される。さらにダム建設に伴う大規模な土砂の移動が地形のバランスを崩し、ちょっとした大雨で土石流を起こし、あなたの家が修復不能の被害を被ったとしたら? それはありふれた自然災害としてうやむやにされ、新聞にも報道されずどこからも補償が出なかったとしたら?
それはそもそもあなたが税金という形で日本国株式会社に投資した資金によって起こったことでもある。あなたはいわば我が身に起こった損害をわざわざ自分から望んで買ったことになる。現代人の多くはこのように自分の生命を脅かす相手にまで投資している。

●現代発明家の問題

アイデアを持つ者(創作者originator)は、少壮であればあるほど自己資本を持たず、ましてや担保に値する資産も持つべくもない。企業はリスクの高い開発に手を出すよりも、他社を出し抜くこととか、下請けや労働者を当然のごとく叩いて搾取したり、政治家と野合したりして生き延びることに夢中なので、一発明家のアイデアなどには耳を貸さない。投資家は事業の質よりも、もっぱら株価の描くフラクタル曲線にしか興味はない。政治家はもとより「創造」とは最も無縁の世界で生きており、この世に創造的なことが起こりうるなど一度たりとも考えたことがない連中である。政治家とは莫大 な税金資本を食い物にする企業利権に群がり繁殖した寄生虫のようなものである。

自己目的化した金融ゲーム・会社ゲーム・政治茶番劇は、さながらガンに制覇されつつある身体のように、社会の基礎体力をむやみに消耗させるだけであろう。かくして本来地上に実現すべきであった精神財(アイデア)は闇に葬られ、社会はじわじわとやりきれぬ凡庸さの熱平衡状態へ追い込まれる。もはや何事も起こり得ない文字通り絶望の社会・・・・

●土建屋的政治家の発想

政治家はいつも我こそ社会の閉塞を打開せんと威勢良く息巻いている。
むろん金融システムの合理化を徹底して押し進めるべきなのは言うまでもない。やれるかぎりやるべきだがそれだけで事足りるわけではない。では彼らは他に何が出来るだろう。
土地取引税をちょっと引き下げたり、公共資金を投入して闇雲に公共事業を増やしたりしたところで、真の活力は決して生まれないだろう。いわんや政治家が楽観的な景気観測をいくら発表しても焼け石に水である。それはインサイダー取引の格好の餌食になるのが落ちである。
政治家にできることはすべてその場しのぎにすぎない。たとえばおきまりの雇用対策として、田畑や森林をつぶした敷地に箱物公共施設が建設されたとする。その建設期間だけは瞬間的な雇用が増え、物資も消費されるので人々はとりあえず歓迎するが、できあがった無用の長物はずっしりあとに残るわけであり、その負の財産はのちのちまで経済を圧迫し続ける。そしてふたたび政治家は臆面もなくこう噴く。「では次にそれを壊す公共事業に着手しよう」と。このように彼らは大事なものを壊して無駄なものをつくり、そして壊す。そしてまた作り、またまた壊す。以下同様。
大国がひきおこす戦争も、こうした土建屋的政治家の発想によるもので、道路を掘っては埋める「公共の福祉工事」の延長線上にある。他国市民の生命よりも、自称「聖戦」による軍需景気や破壊に基づく復興景気に自国経済が沸けば、国民は満足し、現政権を支持してくれるからである。

じっさいこんなにむちやくちやなことを続けてもなお、国家や経済を維持できていることがふしぎでならない。破局はかろうじて繰り延ばされているということだろう。
繰り延ばせばするほど破局は悲劇的にやってくる。それは考えるだに恐ろしい。

●社会はいかにして活性化されるか

政治家や官僚がシステムをこちょこちょいじくってみたり、首相官邸で椅子にふん反り返って電話をかけまくり、根回しをしたり、そんな口先仕事で社会が活性化されるわけがない。彼らは何も創造せず、的はずれな編集をしているにすぎない。社会は彼らの着せ替え人形なのか。
逆噴射処置しか出来ない政治家を国民が養う必要など一体どこにあるだろう?
私は政治家に提案する。現代の政治家が出来ることでただ一つ有効なのは政治家を辞めていただくことである。もはや多くの人が政治家には何も期待していない。
人は政治家になろうとしてはならない。
何かを変えるにしても、変えようとする主体が政治家であるという理由で既にあらゆる試みは最初から矛盾をはらみ失敗する。なぜなら政治家は現実の社会に生活する当事者であることを放棄した特権階級だから。
当事者でない者の決定は内容がどうであれ、当事者への強制あるいは生ぬるい押しつけにしかならない。

読者は自分自身の体験を思い出してほしい。何か新しい事物を理解したり発見したときの驚きに似た精神的な高揚を。それは現実世界の法則に触れた瞬間でもあろう。この高揚感は身体までも溌刺とさせ、日常が全く新鮮に眺められるようになるものだ。
一般に、既成の価値観が相対化され、より高度な新しい価値観が出現する時、私たち精神は何にもまして高揚する。生身の人間で構成されている社会もまた同様のはずである。社会もまた新しい価値の出現を求めている。

しかし一方で私たちの心の中には、この自然な発展を妨害しようとする力が同時に存在する。上に見たように、「無限の生命を追求する密室的保身組織」がそれである。現代の政治家はまさにその心理の純粋培養種といえ、その意味ではまさしく人類の集合的欲望を代表している。既得私有特権の麻薬を一度味わってしまった者は、それを守り、拡大しようとする。現在自分が置かれる恵まれた地位を不動のものとするために、あらゆる人脈を駆使して権威付け、巨大組織化に励む。彼らにとって現在は最高であり、否定すべきものは何もない。新しい価値の出現など彼らにとってはもってのほかである。それは既得私有特権の無根拠性を暴きかねないものであるから。
こうした誰の心にも宿りうる心理こそ私たちの中にあって私たちを盲目にする最大の敵である。

私は企業・投資家・発明家の三者に呼びかける。政治家的な保身の誘惑を徹底的に排除し、真に有用な精神財を一つずつ三者の力で地上に実現していこうと。それはさほど難しいことではなく、三者による本来あるべき関係をとりもどせば、今すぐにでもとりかかれる仕事である。

次の基本的な認識をもう一度取り戻そう。
良いアイデアはそれ自体が資産である。
創作者が提出した青写真の将来性を、資本を持つ者は自分の目で見て理解し、そして出資し事業を興す。創作者と出資者はリスクを分かち合い、富を分配し、さらに新たな企画へとつなげる − これこそ本来生産的な「投資」の基本だったではないか。

●企画限定時限直接投資

そこで私は、従来の組合、会社cooperation/corporationとは異なった、単独の企画operation(注)に限定した投資を募り、徹底的に透明なシステム下で運営される、有限期間の事業というものを構想してみた。この論文はその一般的な形式を提案するものである。

operationは、過不足なき体系と軽快なフットワークで国家をも越えて活動し、必要最小限の規模、少人数の信用関係で動かすことが出来るだろう。そのシステムは徹底的に透明、公正、シンプルでなければならない。
単独の企画に限定した投資を募り、利益の限界を事前に設定し、それを超えた時点で利益追求をやめ、社会還元に移行する。活動を柊了する時限もあらかじめ決め、それをすぎると、企画の成功失敗を問わず、その期限をもって清算し、解散する。つまりこの事業は私たちの身体同様、ライフサイクルがあり、寿命があるのである。

operationでは、従来の投資investmentや投機speculationで流通する貨幣証券と区別し、独自な性格の証券を発行する。これを「約形engagement 」と呼ぶことにする。

●このoperationシステムを動かすことの効果

体系が最小限なので、資金を集めやすく、また小資本で事業を実現できる。
価格は無理のない値へと自動的に設定される。利益が出た場合は矛盾無く公平に分配される。
利益が皆無だった場合の状況もなんら悲劇的ではない。
契約時に全プロセスが明快に公開されているので、関係者各人の間で過不足なき信頼を築ける。全業務内容は事前に決められているため、株主総会を開く必要もない。そのような総会を開くぐらいならば新たに別のoperationを立ち上げる方が賢明であろう。取締役のような役職も不要である。
operationがいったん動き出せば、活動終了期択まで自動的な再生産と経理業務が遂行されるだけである。
創作者は著作権が守られ、イデアを実現でき、成功すれば一定の富も得る。そしてさらなる研究、創造に着手できる。
出資者は新しい価値の出現を祝福し、その成果を自由に使用でき、資本も増やし、さらに新たな投資へと進むことが出来る。
そして何より社会にはそれまでには存在しなかった新しい価値「精神財」が付け加えられ、万人のものとなる。
たとえ売れなかったとしても、設備は残り、関係者全員に公平に製品が分配され、矛盾無く清算が遂行される。
約形は有効期限があり、追加発行もされず、それ自体が投機対象として一人歩きすることもない。

特許取得したもののスポンサーを見つけられず、アイデアが一度も事業に結びついたことのない人にこのoperationは有効に使われるだろう。
一応、発明品の大量生産を対象にこのシステムは構想されたが、おそらく出版、音楽・演劇公演事業、映画製作、建築など、さまざまな創造活動に、この形式は使われるだろう。

読者の中にはこのシステムがあまりに数学的と受け取られる向きもあるかもしれない。しかしこれは見かけほど込み入ってはいない。もちろん数学はある前提の下で完全な公平さを最小限の形式で実現する便利な道具ではある。論より証拠。読者もこのシステムを使って是非思考実験してみてほしい。そこで算出された値を追うだけでも、全関係者が満足する解へと至っていることが理解されるであろう。きっと読者自身新しい試みを世に問おうという意欲が湧いてくることと思う。
企画内容に妥当性があり、それを動かすシステムが透明でフェアであれば、その事業に乗る人は必ず現れ、放っておいても動き出すのである。

この単発のoperationの集積が、今後の経済社会芸術生産活動の主力となるべきと考える。
従来の国家・企業・金融主導の巨大資本社会は根本から考え直す時期にきている。


(注)この計画は松本夏樹氏によって語源的な意義からoperationと呼ぶように示唆された。

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