初出　「生命と建築（１９９０）」

　何の兆しもなかった。それまで日常は日常らしく事が運び、瞬間は確実に次の瞬間へとつながって、この連鎖は永遠なのだろうと信じて疑わなかった。
誰もがそう考え、時にはうんざりもし、地球が爆発するSF小説を読んでスリルをおぼえ、気を紛らし、科学者たちといえば、まるで自分の一生などすっかり忘れてしまったかのように、地球の年齢を当てたり地球が死ぬ日を予言したりしていた。宇宙のビッグバンも、地球の終わりも、見ることができないのはほぼ確実であり、0パーセントという底抜けに空しい確率が現実をますます陳腐に見せかけていた。即ち「何事も起こらないこと」こそが私の「現実」だった。だが私は現実を見くぴっていたようだ。

　それというのも時はつい先ほどのこと、私はあまりに爽やかな日和だったので、散歩に出ている途中だった。真昼の太陽が照りつける歩道を歩き、草木のむせる中、鳥の歌う声を聞くともなく聞き、「もう夏も近い」と同じように思った去年のあの日を思い起こした。そしてその日から今日までの数々の出来事や変化に思いを馳せ、様々な感情を交えながら一年の時の流れを計っていた。と見ると向こうから、私と同じような感慨に耽っているのだろうか、自転車に乗った若者が、くだけた恰好でこぐともなくころがしてくる。その遥か向こうに、もうすっかり葉を纏った、私には馴染みのあの巨大なポプラがゆらりと揺れ、日にぎらりと光った。一陣の風が来るな　と思った矢先、眉の辺りがむず痒くなり、右手をゆっくり上げ始めた。

　どうしたわけなのか、これから後の世界が全く無くなってしまったのである。当然私は仰天した。何も見えない、というより「見る」ということをやってのける私の身体がもはや無かった。私は死んだのだろうか。だとしたら今もなお考えているこの「私」は何なのか。これを「死んだ」というのか。死ぬ瞬間には、徐々に肉体から遊離してゆく感覚があると聞く。私の場合、特にその「徐々に」が無かったこと、予感、クライマックスが皆無だったことはあまりにも寂しい。

　確かめることはできないのだが、私だけが先ほどまで健康につながってきたあの世界から転落した（つまり私個人の死）とは断じて思えないのである。理由は、前の「徐々に」が無かったこと、加えて私がヒトであった時分、肉体にも精神にも病理の前科はもちろん、予兆さえなかったこと、その他諸々の状況証拠が「私だけ」という選ばれたヒトの思想を排除するわけだ。だからきっと、あの自転車の若者や、華や木も、私の知人や知らない人も、私と同様途方に暮れているだろうと考える。

　ふと、これは、この物語の初めから、よくみる夢でも異常にリアルな作品を成しているのではないか、とも思ってみた。空白の夢はありえないから、私は考えを中断し、何も考えず、やがて枕の感触が顕れるのをじっと待った。が、この夢は覚めないのだ。

　またやがて真夜中に停電になった時のような気分になり、この場合は電力会社であるわけもないが、とにかくそんな類の公共システムがあるような気がして、「はやいところ回復させろ、これでは何もできないじゃないか」という闇雲な不満がむらむらとつのった。もとよりそんな会社とは契約したこともないし、金を払ったこともない。我々はその会社の財産である「物質」を、ただ掠奪してきただけではないか。その会社とは・・・・・・社長の名に「神」という、今までつとめてないがしろにしてきた言葉がひらめき、絶望的になった。

　次の瞬間、こんな事件はなかったかのように、世界が　ぱっと現われ、きわめて順調に動きだし、気がつくと私は右手で額を掻いていて、一陣の風がぴゆうと吹き過ぎていく。私はちょっと立ち止まり、「あれ？」としばし悩んだ後、何事も起こらなかったふりをして歩道を歩き始め、わが家へ帰る

そんな自分を空想し、そうなればいいなあと思ったがならなかった。

　どうもこの新しい世界はちょっと長く続きそうな気がする。私は待つことが好きではない。しかし、この強烈な現実下では、もはや何も行動することができないにもかかわらず、そのかわり以前は思いも付かなかった考えが自由に展開できるようになった自分に気が付き、皮肉なものだと感じた。何も考えないでいると怖かった。　しばらく考えを中断していると、くら−つと気が遠くなり始め、本当に私が何も残さず消えて無くなってしまうのではないかという絶大な恐怖を体験するのである。これ以上無くなってたまるかと思考を続けようとするのだが、よくしたもので、するすると考えがつながってゆくのである。

　世界が無くなる以前、私は映写中の映画の登場人物の一人だったのではないか。私が居た世界は一編の映画だったのではないか。私は自由意志を標傍していたけれど、私の行動は全て放映される前に当のフィルムに現像されてあったのではないか。そうだ、それでさっきフィルムが何らかのつまらぬ理由で切れたに相違ない。そういう終わり方だった。映画のフィルムは、登場人物がピストルを撃ったときに切れやすいというものではない。
　お金を払って観にきたのに、間の抜けたところで中断した不手際を非難し、早く直せという声を押し殺し、白々とした間のなかで募ってゆく不満。映画はなかなか再開しない。ちょうどストーリイが面白くなってきたところなのに水をさされた気分で、観客の意識はどこへ向けて良いのかわからぬ宙吊りの状態となる。おっと、また他者へすべり込んでしまった！私は観客ではなかったし今も違う。観ていた者は誰か？
「神」　−　また絶望的になる。

あらゆる説明を試みたが、すべては徒労に終わった。みな似たような、やり場のない不満と絶望を残した。なぜかといえば、説明の努力はいつも「世界が復活する」という盲目的な仮定に始められていたからだ。これはきわめて非科学的な態度だ。
　私は次のような結論に達した。「こういうこともあるのではないか」と。
何らかの理由で、以前の世界は力尽き、終わり、永遠に失われたのだと。最後の花火は予測できないものである。我々はしばらく「次はもっと素晴らしいやつが上がるのでは」と期待して待つ。ところが意外にも、先ほどの一発が最後の花火だったというわけである。
　ほとんどの人は自分が所有していた金額分だけ借金を返してもらえず、泣き寝入りする羽目になった。これまでの生命の地道な努力、どこかをめざしていたかに見えた科学の進歩も、世の善意も悪意も、家庭的なささやかな喜び、笑い、悲しみも、みんなひっくるめた全ての物など有っても無くてもよかったように、純粋に無関心に、星が爆発することもなく、人智では任意としか思えない時点に、ふっと運転を放棄する世界があっても良いのではないか。事実、私たちが知っていた世界はそうだった。少なくともそのように振舞った。
　勝手に世界を創造しておいて、気紛れに手をかけることをやめてしまった我々の「神」を恨んでもはじまらない。いくら駄々をこねても、御機嫌をとっているつもりでも彼の主は聞く耳を持っていないらしいのだ。以前の私ならば、神を呪い、有為な事象も虚無とし、ただちに生きるのをやめただろう。
悪の悦びでさえその時は空しい。しかし今は、世界のこの驚くべき任意性こそが生命の神秘を根底から支えているように思えるのだ。

「どうして、どのような奇蹟によって、あの『日常』と呼ばれる世界がありえたのか」
という戦慄すべき疑間は、今新たにこう付け加えられる。
「そして、同濃度の奇蹟によって、あの『日常』と呼ばれる世界が、どうして在ることをやめたのか」
謎はただ2倍に増えただけのように見える。だがこの地点からこそ世界は理解され始めるのだ。以前の私たちは、ただ漠然と、永遠という時間のほほ真ん中あたりに居るのだろうと思い込んでいた。そんな根拠はどこにも無かったのである。

　もう二度と以前の惑星、国、家族と再会することはないだろう。かといって、こんな状況が永遠に続くとも思えない。こんな無定形であっていいわけがない。だから可能性として、私はいつかチャンスを獲えて形態を得ようと目論んでいる。それが前の世界とたまたま同じになればよいが、ありそうもないことである。それこそ奇蹟だ。
　希望は十分にある。私はこの虚無の世界が実に多くの世界と接している気がしてならない。それこそ砂の数ほどの世界が・・・。以前居た世界は、その中のたった一例であり、要は確率の問題なのだが、とにかく様々な形ある世界がごろごろしているように思える。ひとつの標本にすぎない以前の世界が、美しくリアルであった事実が、その期待を深める。事によったら私が得る次の世界では、進化を初めからやり直さなければならないかも知れない。果たして前の世界に匹敵する、あるいはそれ以上の多様性を展開できるだろうか。
それ相応の初速に乗るのは容易ではないだろう。しかし寛容を身に付けた私はこう考える。どんなに貧弱で短命な構造をしていようと、フォルムさえ有しておれば、それは紛れもなく一つの世界であると。だからどんなものでもいい、私は世界の作り方を切実に知りたい。私の住む新しい家を作りたい。

　時経るにつれて、以前の物質的記憶は加速して消えてゆくようである。悲しい気持ちもないではないが、前のように自分が消えてゆく恐怖はなく、むしろ強度を増しているとも思える。というのも、「何かもっと不変で大きな法則に従って考えている」という自覚が生まれてきたからだ。具体的な事物（名詞）を失い、話し相手もいるわけではないのに、なおこうして考え続けていられること自体、その法則の存在を暗示している。実に、「論理」は伝達の手段であるよりずっと以前に、自ら考えるためのものだった。伝達は論理パワーの一側面・副産物でしかない。一つの論理系で起こった事は、他の論理系でも（似たような事が）起こりうるというだけのものだ。だからもし伝達の効率だけを目的とした言語が案出されるとしたら、それは玩物喪志、本末転倒と言うべきで、そのような水先案内を欠く体系からは新鮮な言説は決して生まれないだろう。
　まさに怪我の功名になるわけだが、馴染み深い記憶が退いてくれたおかげで、撹乱要因がなくなり、論理の機能がかえってすっきりと鮮明になった。いま私には不滅の存在に常時触れているという実感がある。それもさることながら、加えて私はある種の自由を手中に納めた。それは時間からの解放である。時間はかつてのように外部から私を計測するものではなくなり、私は思考を展開する分だけ時間を進め、時には止め、戻すことができるようになった。時間というものは本来そういった性質のものである。今となっては以前の不可逆だった時間や重力の方向性がひどく歪んだもののように見える。こうした対称性を犠牲にしたところに以前の世界は成立したのだろうが、同時にそれがあのシステムの致命的な限界でもあった。
　私はもうそれほど悲観的ではない。私はあの事件直後、いっさいを失ったように思っていたが、よくよく反省してみると、このように既に多くのものを相続し、新しい自由さえ手にしているのだ。きっとこうして考えていること自体が宇宙の営みなのだろう。つまり私の意志によらず、新しいゲームはもうとっくの昔に始まっているのだ。それも元を辿れば前の世界が失われる遥か以前から連綿として。あの形ある世界の突然の蒸発は当事者にとってこそ大事件だったが、もっと大きな物語の中ではちょっとした訂正とか、取るに足りぬ捨て石とかの部類に入るのかも知れない。あるいは間引かれたか・・・　状況は極めて好転している。この期に及んで私は“前と同じでは面白くない・もっと違ったタイプの世界を見てみたい”といった「欲」さえ持ち始めている。あの事件以来、自転車の若者をはじめ何人とも接触できないでいるが、各人なりに状況を受け入れ、私と同じような段階を経ていると信ずる。　私の関心は、いよいよ私の思考自身に集中していった。そしていつからか私は、それまで全然気にも止めていなかった存在が気になり始めた。今までずっと影のようにまとわり付き、時には警鐘を鳴らし、時には鼓舞し、ひたすら目立たない仕方で、巧妙に思考活動へ介入してくる黒子のような存在を。
私は独りで気持ちよく歌っているつもりだったが、実際は注意深く聞かないと聞こえないような伴奏の雲に支えられていたのである。私はこの現象を拡大しようと努めた。いつしか私の興味の中心は、この前−思考と言うべき私自身の第2の意識へと移っていった。そしてなんとかその全貌を表舞台へ引き上げ、第1の意識の光に照らし、つぶさに眺めてみようと試みたが、「私が、私が、」と叫びたがる通常の論理を以てしては、もとより困難な仕事であった。だが私は執拗に探索を続け、結論を急ごうとせず、できるだけ中立の姿勢で臨み、とにかくその暗箱の中の世界に慣れようとした。その結果持ち帰れた情報は僅かだが、その意義は重大である。まず私はその意識のモードの意外な賑やかさに驚いたものである。しかし最初はただの雑音にしか聞こえなかった。やがてそのざわざわとした雑音が、言語らしいこと、またその人格の多さにも驚嘆した。何よりそこで話されている言語が私には全く理解できず、それが少なからぬショックであった。子供の頃、ある朝母から開かされた自分の寝言が、私の使うはずのない未知の言葉だったこと、その時の驚き、その不気味さをにわかに思い出した。私は今まで私自身の片面しか見ていなかったと痛感した。その私の片割れは「顔」に価するものを持っておらず、印象はどこか“海”に似ていた。私は自分自身に属する言語が理解できないわけがないと思い、辛抱強く耳を傾け、まるで赤ん坊が母国語を覚えていくようにその国の言語を学んでいった。まったく私の知らないうちに、よくもここまで高度な論理体系に成熟し、こんなにも広大な容量の空間が作られていたものである。今のところ理解した範囲はたかが知れているが、そこで語られている殆どの内容は通常の論理に翻訳することができない。それにたとえ翻訳できたとしても重要な意味にはならないだろう。つまりそこでは高度な語法が運用されてはいるのだが、決して「能動的」ではないのである。では何をしているか。それは前に言った通り「黒子」であり「乳母」であり「羊飼い」であり「フイクサー」である。例えば今「私」が突飛な発想をしたとする。すると「私」の方々で矛盾が生じ亀裂が起こる。そこでこの私の片割れは全精力を傾けて、矛盾の速やかな処理と復旧に当たるのである。
要するに前-思考は、第1の思考の正常な運行のためだけに終始活動しているのだ。この不断の利他的活動に支えられてこそ、私の表面的な思考は気ままな貴族的生活を送っていられたのである。私がこうして闇に聞かせている話など、この識閥下で行われている丁々発止の議論に比べれば、決議内容の色視せた報告にすぎない。私の得た情報によると、彼（自分の片割れをこう呼ぶのを許していただきたい）は昔私と等身大の人格であった。ところがある時点から必要に迫られて、どちらかが特定の人格を捨て“従”に引き下がらなければならなかった。それは本当にどちらでも良かったそうである。彼は“従”に回った分、引き換えに限り無い増殖が許された。その構想された配列空間の広さたるや、「私」の想像を絶する。この空間は数論が展開されていた世界とぴったり一致する。人間は望遠鏡や顕微鏡を覗いてばかりでなく、もっと自分自身を覗いてみるべきだった。どれも皆同濃度の無限である。
無限とはどういう事か。それは「殆ど起こりそうもない確率でも、それが正しければいつかは必ず起こる」という異例のゲーム空間なのである。考えうることは必ず起こる、これは宇宙の法則である。
　私は人格が崩壊しない程度に、識閾下の海に下りては再び浮上し、それを幾度も繰り返した。言及したように水面下の直接の情報自体は殆どが使い物にはならない。ところがあそこで耳にしたのか、私自身が発明したのか判別できないのだが、いつの間にか私はある新奇な情報を得ていた。おそらく海に啓発されて自然に生まれてきた私の着想なのだろう。その情報とはある面白い「文」である。この文は通常の言語にも翻訳でき、全く簡単で短い内容である。少なくとも誰もが大笑いできる謎掛けであるには違いない。どうしてわれわれは肉体を持っていた時分にこの事に気付かなかったのだろうか。
「全ては語られた」などと高を括っていたのはとんでもない間違いだった。
我々はかつて何か高尚なものを求めると称して、わざわざ悲劇へと志向し、追い立てられるように生活していたのではないか。なぜ好ましい文化の萌芽を幾度も目の当りにしながら、それを育てようとせず、結実を待たずに先へ先へと進歩しなけれはならなかったのか。まあ今更そんなことを悔やんでもどうなるものでもないが。とにかくこの冗談にも聞こえる箴言を知っていれば、誰もが進歩のための進歩を馬鹿馬鹿しく思い、もう少しは幸福になれた MZn咸�鰻�RｸAA仇 �tQﾎs 3ﾀｺ?�?5�D嘸0c/実&｡?!=ｾp%�ﾁ uｾi%? ｾw%?ｾ}%ｺﾇ��=ｱjg�v �vｸﾘ起儀 ﾈRQ址ﾗ ｱji�v �vｸｭ+?�=ﾚ鰻ﾜj�vﾜ�vﾚ号?�股RP夊),8ζj�号ﾌ�股RP址}|8jｸB起儀 ﾈRQ号｣�股RP夊)?8ζﾄ^&窮0�Fﾘj孝ﾘ股RP号ｼ�股RP夊)ﾅ8ζ号ﾔ�股RPh夛x`X号D�股RP垳>藐号8�股RP夛xス孝�股RP夛x拗孝鼬ﾒRP夛xｩX孝ﾈ股RP夛xｵX孝竚ﾒRP夛xﾁX孝ﾘ股RP?,.X孝ﾐ股RP夸ｹﾍX号ｼ�股RP夛x藕号n�股RP?`TX孝股RP夛x�X究6�鬣8鮖�="疼魍�=#疼鬩�=%疼鬘�=+疼髯�=D疼鬣�=E疼髱�=P疼髟�=Q疼骰�髓�ミ�oﾘ孝膜ﾒRP�vｨ�vｪ�v�v嘯h�ﾘ�vｴ�vｶ�v�v壺h俘孝膜ﾒRP�vｬ�vｮ�v�v嘯hｩﾘ�vｸ�vｺ�v�v壺hﾁﾘﾇF｢V靦簷竝?&�ﾚ?祈靦獏熏桎�ﾘ季F 儀靦簷竝?&�ﾚ烏ェ?ミ? }魃�号&�股RPj �v�v噫#kj堝1ζ掩�塩�=ﾔ�股宇ﾎ鰻ﾐ号?�股宇ﾒ鰻ﾔ号"�股宇ﾖ鰻ﾘ号@�股宇ﾚ鰻ﾜﾇF?ﾄ\ﾇF�P喊ﾗ|ﾇ�ｰ�ﾀﾀﾇ�ｲ�ﾀRPjj号n�股RP壗ｿｼ彝P号?�股RP?zﾘ恪�p�股RP夛xﾒRP喊|ｺ孝ｾ股RP?2貍孝ﾊ股RP唏�ｼ孝�股RP?2x�ｺ孝�股RP?2xｽ?�ｼ筋篠&季&妓宇ｺ鰻ｼ孝竚ﾒRP喊ｽﾄ^&?4&�_?Pj煢Fﾎ祈ﾚ宇猊F?鰻�鯢^&?

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