inter-native architecture


 1995年の秋に、偶然ストラスブルグの大聖堂を訪れる機会があった。
 尖塔が見え隠れする古い街並みを歩くうちに、忽然と大聖堂の全貌が目の前に現れた。
外観をぐるっと眺め、全体から細部の隅々まで行き届いた、中世メイソンたちの張り詰めた意図を肌で感じ、その完成度にまず感服した。そして暗々とした聖堂め中へと入り、ゆっくりと内蔵を観察しながら一巡りした。再び外に出て振り返ったとき、私のなかで何かが起こった。
 私はゴシック建築をそれまでいくつか見てきたけれど、こんな感情が生まれたことは初めてだった。優れた音楽、優れた映画からしばしば受け取る強い感動と同様のものが私の全身を支配した。ゲーテは「建築は凍れる音楽である」と語ったが、これは全く真実である。私は人間の成しうることの真の偉大さに触れたように思う。
 私は建築の巨大さに感動したのではない。今ではよく分かるのだが、私は作品のアーティキュレーンョン(有機度)に深く共振したのだと思う。一個の優れた建築は、その時代の人知が構想しえた世界観を、余すところなく情報化し得るものだ。小宇宙である人間は建築を作ることによって世界を手にすると言っても良い。建築は時代精神・思想の果実である。この原初的ともいえる建築衝動を権力ヘの欲望と読み違えてもらっては困るのだが。
 さらに私はあの建築から強力なビジョンを突き付けられたように思う。私たちは今の時代に、あのストラスブルグ聖堂のアーティキュレーンョンに匹敵するものを、まったく独自な方法で建築として結実させなければならない。
 私たちはやがて必要以上の耐久性を建築には期待しなくなるだろう。また、巨大な柱や梁を駆使して大空間を競って作る事にもあまり魅力を感じなくなるだろう。それよりも、内的な充実度とか、構造の明快さとか、増築可能性や改築可能性をはじめとする自由度が尊ばれるようになるだろう。未来の人は細い竹の柱が竹林のように林立する、柔らかい網目の中で生活することに喜びを感じるだろう。このような家は、そこで生活する人の個性を、建築の形や匂いなどを通して色濃く反映することだろう。人間は自分の家を自分の手でデザインしながら精神的にも成長するであろう。近い将来、人間は他ならぬ自分自身の作った物から学ぶ術を学ぶだろう。このようにして全ての人間が独自の芸術家になることができる。そして全ての人が自分自身のための主治医ともなるだろう。
 このビジョンは狭義の建築だけに向けられたものではない。音楽、文学、造形を問わず、一般にあらゆる「作品」は、まず作者自身の「精神が住まう家」という意味で紛れもない「建築」だと私は考えている。何らかの表現をしようとする者は全て、自分の住むべき家を創造しているともいえる。そしてその家が身体に合わなくなり、窮屈に感じるようになったら脱ぎ持て、また新しい家を作ればよい。

 1996年10月1日 日詰明男

メアリヒト No.3


                            

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