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竹の建築・都市、竹の音楽、竹の食、竹の芸術、竹のデザイン・工芸・工学、竹の民俗学、竹の神話、竹のサイエンス、竹の幾何学、竹のワークショップ、竹の経済、竹の哲学などを総合した超学際的祭典BAMBOOSTOCK(バンブーストック)。 中心はどこにもない、あるいは至る所が中心である、リゾーム的な展開を目論んでいる。 |
1995年、バリ島ウブドで開かれた国際竹フェスティバル。 リンダ・ガーランド邸で繰り広げられた竹尽くしの音楽そして屋台村。 屋台村は竹の工芸、苗、食材、建築、サイエンスなどの学祭的な見本市となっていた。 竹で作られたすり鉢状の野外ステージに、インドネシア周辺の竹の民族音楽が結集していた。 そのほとんどはコンサートというより、儀式そのものだった。 最終日は無料公開となり、住民も大挙して押し寄せた。 リンダ・ガーランドはここで1969年の「ウッドストック」を再現したかったのだなと思った。 見かけてはいないがミック・ジャガーも来訪したとかしないとか。 そこで体験したケチャックの元型ともいえるパフォーマンスを見て、帰国後「フィボナッチ・ケチャック」を作った次第。 そして、私はこのバリ島の竹フェスティバルに倣って、東京、千葉、京都など、縁ある地域で「バンブーストック」をやろうと提案してきた。 サンフランシスコで出会ったアメリカンバンブーソサエティの友人から、クライマックスで巨大な竹のシンボルを燃やすBurning Man の祭典も教えてもらい、さらに構想は膨らんだ。 舞台設営から屋台村まで演者達が手掛ける変拍子ポリリズム飯場劇団「維新派」のラディカルさからも触発された。 あれから20年、2015年から、現在の居所静岡県で、月暦七夕などとからめ、有志と共にようやく端緒を開いた次第である。 ウッドストック、バリの竹フェスティバル、Burning Manにインスパイアされたとはいえ、単にそれらのコピーを目指すのは野暮なことだ。 私は以下のような新しい「祭のプラットフォーム」を提案している。 アジアならでは祭のための骨太な屋台骨となるだろう。 正五角形の区画だけで構成された準周期的実験都市。 マクロからミクロまですべて黄金比に支配されている。 どの区画も優遇されず、虐げられず、互いに囲み囲まれ、出会いに満ちた雑踏が自ずと生まれる。 中心はどこにもない。あるいは至る所が中心である。 いわばこれは「スーク(市場)のイデア」である。 来訪者の購買意欲も自ずと高まるだろう。 フィボナッチ・ケチャック(通称「たたけたけ」)という変拍子に満ちた新しいポリリズム音楽のプラットフォームがある。 マクロからミクロまですべて黄金比に支配されている。 ニューロ・アーキテクチャー設営と並行して、都市住民たち自身が演奏を練習し、磨き上げる。 この音楽はいわば「前衛的な民族音楽」である。 即興音楽家はこの竹の音群の雲の上で自由に戯れることができるだろう。 竹のニューロ・アーキテクチャー内で演奏することによって、都市全体が楽器となることだろう。 従来の「ステージ/客席」という図式はこれにふさわしくない。 音楽の基本であるストリート・パフォーマンスに立ち戻るべきだろう。 幸いニューロ・アーキテクチャーにはそのために格好の隙間がそこかしこに用意されている。
マクロからミクロまですべて黄金比に支配されている。 同一の祝祭空間に3つの次元にまたがる同一の幾何学構造が統合されていることになる。 祭りのフィナーレで、このオブジェを惜しげもなく燃やす。 きわめて対称性の高い幾何学構造を灰(カオス)に帰すことほどのカタルシスがあるだろうか。 砂曼荼羅はそうした宗教的儀式であった。 幾何学的造形は最高のサクリファイスになりうる。 いわばこれは「祭のイデア」である。 祭の後は紙切れになる地域通貨「バンブー」を発行し、流通させる経済実験もしばしば試みている。 ストリート・パフォーマーたちへの投げ銭も集まりやすく、屋台村内でもサラサラ血液のように流通した。 住民(屋台主人)にはベーシックインカムを支給したこともあり、うまく機能した。 以上のプラットフォームをいかに使いたおすかは、その地域、集まる人々の自由裁量である。 その地域風土ならではの、竹の食材、竹の食器、竹の音楽、竹のワークショップが集結すれば面白い。 あたらしい幾何学が今までにない魅力的な雑踏を生むことに私は何よりの興奮を覚える。 |