「人は語りうることしか語りえない」と語り終えた後、ヴィトゲンシュタインは哲学を離れ、行動の人となった。
にもかかわらず現代の哲学者たちは、寝転んだまま語り続けることをやめない。彼らは依然、語りえぬことをまるで語りうるかの如く語るのである。そうしていればいつか出口が見つかると思っているのだろうか。彼らは居直って自分の寝床から出ずに、重さのない知的玩具「シンボル」を弄んでいるだけのように見える。これは「象牙の塔」ならぬ「万年床の塔」である。かくして言葉はすっかり力を失ってしまった。
いっぽう造形家は、言葉では語りえない何事かを「かたち」によって表現することを日常としている。その意味で造形家はヴィトゲンシュタインの一歩先を確かに歩んでいる。
造形家は本来、思想形成の最前線に位置してしかるべきだが、それを自覚している人は残念ながらまだあまりいない。心有る人は造形経験に基づいて言説至上主義を批判すべきである。造形家こそが語りうることの限界を認識しているのだから。
造形家は次のことも銘記しなければならない。人は作りうるかたちしか作りえないと。
人は語りえないことをつい語ってしまうように、作りえないものを作ったと偽りがちである。作者が権威ある人であればあるほどそれはありがたがられる。作品の無意味さ難解さが作者の権威に拍車をかける。現代美術は裸の王様のオンパレードではないか。これでは先ほどの現代思想家と大差はなく、現代は造形力もかつてないほど弱まっていると言ってよいであろう。昔の人はこの危険性をよく知っていたから、偶像を作ることを禁じたのだった。
権威への憧れは人間の大きな弱点であり、これこそ問題の急所であると思う。
真の芸術家は、いかなるギルドにも属さず、またいかなる偉人や過去の作品も偶像に祭り上げはしない。当然、虚像たる神なども崇めない。芸術家が最高の畏怖をもって理解しようとするものは、はるかに広大で豊かなこの足もとの現実そのものだ。
芸術のこのような目的と造形の威力に気付いたならば、もはや科学や政治や生活と完全に隔絶された所にある無責任な「美術シーン」なるものに微塵の未練も湧くことはないだろう。
私たちは造形を通して現実世界の解読に挑戦しつつ、科学や政治に対して語りうることを勇気をもって語ることにしよう。このようにしてのみ従来品評会の次元に止どまっていた造形行為が、それを脱し、現実を実際に変えるほどの発言力を持つようになるだろう。
同時に相当の責任を抱えることを覚悟しなけれはならないが、それも望むところである。
人間のほんとうの仕事が発見される。その可能性を思うたぴに私は自然と強烈な造形意欲に駆り立てられる。
1996.3.24.日詰明男
新聞「mehr licht!」VO1.1(1996)の原稿より
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